皆さん奮っ大論争してください。
元の発言 [ Re: Title妻木晩田 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月1日(木)20時56分49秒 ]
>> 「めき」の訛りだろうかなぁ・・・
>> とかなんとか怪しんでいましたが,
>> サイトで調べても分かりませんでした。
あそっか。
「めき」の訛りか。
めっきり寒くなった。
ところで「ははき」は蛇神のことですって?
ははきのくに。
大山、孝霊山、縄文の狩場。
妄想爆発モードで・・・
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月7日(水)15時59分24秒 ]
>> あのー、私も事情に疎いですが、むりやり敵地に徴発されて、軍役を捨てて集団で逃げ出したら、兵糧も無しにどうやって故国に帰りますか?
なるほど言われてみれば強盗もやむを得ないですかね。
>> 中華王朝と高句麗との間の政治関係は、色々変化するようですが、全体に見るとあまりよくないようです。
>> 私は高句麗は騎馬民族的というか、中国人からみるとやや偏見の目で見られていたようにおもいます。
>> とにかく食うにも困る民族がいきなり強大化することはありえない。
>> まず生業があって人口が増え、強大化してのち、環境変化や、人口の増えすぎで飢えることは有るでしょうが。
じゃあこれはどうですか?
「其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。」
三万戸の国の国民の中に一万人以上も働かずに食っているもの(貴族)がいる。
これに専従の軍隊でもいたら生産活動をするものはかなり少なくなる。残りは女と奴隷くらい。
始めから正業があって発展して強くなって周辺を従えたのではこんな事にはならない。
もともと住んでいたのはかなり高い山の盆地で農作に不向きでろくな産業も無く発展しようの無い所だったのです。
最初の生業は山賊だった?
むしろ始めから武力だけで周辺の小国を征服して大きくなった国であるような気がします。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月7日(水)16時46分09秒 ]
>>
>>
聞いてから、文字をあてたのでしょうか?
正始八年、「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載・斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。」とあるが、これから考えれば、卑弥呼は詔書を出しているのではないだろうか。
人名は、中国側で勝手に文字をあてているとは思えない。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)16時56分31秒 ]
>> じゃあこれはどうですか?
>> 「其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。」
>> 三万戸の国の国民の中に一万人以上も働かずに食っているもの(貴族)がいる。
>> これに専従の軍隊でもいたら生産活動をするものはかなり少なくなる。残りは女と奴隷くらい。
>> 始めから正業があって発展して強くなって周辺を従えたのではこんな事にはならない。
でこの続きが
「下戸遠擔米糧魚鹽供給之。」
一応話は閉じている。
>> もともと住んでいたのはかなり高い山の盆地で農作に不向きでろくな産業も無く発展しようの無い所だったのです。
>> 最初の生業は山賊だった?
>> むしろ始めから武力だけで周辺の小国を征服して大きくなった国であるような気がします。
高句麗文化について、そういう研究結果どこかにありました?
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月7日(水)18時39分23秒 ]
>> 聞いてから、文字をあてたのでしょうか?
>> 正始八年、「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載・斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。」とあるが、これから考えれば、卑弥呼は詔書を出しているのではないだろうか。
どうも、確かにありえますけど、卑弥呼って称号か代名詞でしょ。
それにしては、字が悪すぎるような?
日本に居た中国人が、書いたにしてももうちょっと好い字はないんでしょうか?
>> 人名は、中国側で勝手に文字をあてているとは思えない。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ありえますけど、・・・・・
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月7日(水)16時46分09秒 ]
>> この点は、如何想像できますか?
>> つまりは、この卑弥呼の字を当てた人が如何聞いたかなんですけど。
>>
>>
>>
どうも丁寧な解説を、ありが追うございます。
あと、思いついたんですが、
枕詞と言うのが有るでしょう。
話す側でも、これを着けると音が変わったりすることは、
ないのでしょうか。
たとえば、吾が卑弥呼女王とかの場合ですが、
あまり例がよくないですが、察してください。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月7日(水)18時19分08秒 ]
>> >> 「其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。」
>> >> 三万戸の国の国民の中に一万人以上も働かずに食っているもの(貴族)がいる。
>> >> これに専従の軍隊でもいたら生産活動をするものはかなり少なくなる。残りは女と奴隷くらい。
>> >> 始めから正業があって発展して強くなって周辺を従えたのではこんな事にはならない。
>> でこの続きが
>> 「下戸遠擔米糧魚鹽供給之。」
>> 一応話は閉じている。
これは東沃沮伝に続いています。
「句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布、魚、鹽、海中食物、千里擔負致之」
多分、沃沮人が国境まで食料他を運び、それを引き継いで下戸が山道を遥々貴族の所まで運んだのでしょう。
わざわざ「坐食者萬餘口」などと書いたのは魏から見てこれが異常と見えたんでしょうね。
何処の国にも貴族がいるけれども高句麗は異常に多いと。
>> >> もともと住んでいたのはかなり高い山の盆地で農作に不向きでろくな産業も無く発展しようの無い所だったのです。
>> >> 最初の生業は山賊だった?
>> >> むしろ始めから武力だけで周辺の小国を征服して大きくなった国であるような気がします。
>> 高句麗文化について、そういう研究結果どこかにありました?
魏志東夷伝を読んで私はそのように解釈したと言う事です。
地図見ても集安なんか緯度は北海道、標高も1000m位、高い山に囲まれた谷底で平地も無い。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)21時26分30秒 ]
>>
>>
>>
「職業軍人」がいて、「軍隊」があって「軍隊内の階級」などがあった可能性も否定できません。
と言うのはキーの走りすぎですネ。
弥生中期から階層があったのは考古学的にハッキリしているわけですが。
>>
>>
>>
まあ“合戦”と言える程度のものではなく、小競り合い程度だったと私も思いますヨ。
「戦争だけを目的とした戦闘行為」は古今東西ないでしょう。
>>
弥生中期の北部九州は平野ごとに「クニ」があったことが考古学的に推論されています。
それらの「クニ」同士で略奪目的の争い「イクサ」があったとして、略奪の目的物は何だったとお考えですか。
例えば、米?。
米だったら怡土平野、早良平野、福岡平野では大きな気候差があったとも思えないから収穫率もほとんど同じでしょうから、
共同して佐賀平野とか筑後平野の方に略奪に行くかナ。
あまり離れていると(貴方が別のところで仰っているように)兵站がどうかナ。
奴国(福岡平野)は青銅器という特産品があるから交易で入手すると思うし。
やっぱり、大陸との交易に絡む利権争いだろうナー。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭機 ] 日付 [ 11月6日(火)21時34分14秒 ]
>> おにりんさん らしくもない、ホンとに鎌を使ったか、
>> カ(すいません字が出ないので)を使ったか、戟または類似の武器に決まっている。
>> いけないもうひとつ有った。
>> 逆刃の剣か刀に類するものでしょう。
銅矛、銅戈、銅剣、鏃も骨に刺さった状態で出土しています。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 11月7日(水)17時20分12秒 ]
>> >> 「卑弥呼」の字を当てた人は、pimiha と聞いていた
>> >> 可能性が最も高い。
>> 聞いてから、文字をあてたのでしょうか?
>> 正始八年、「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載・斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。」とあるが、これから考えれば、卑弥呼は詔書を出しているのではないだろうか。
>> 人名は、中国側で勝手に文字をあてているとは思えない。
ちょっとでも漢字の判る人間なら「子」に「呼」をあてる事はないと思いますよ。
意味を理解すればちゃんと意味の理解できる字を嵌めるでしょう。
中国人が聞こえた音に近い音の漢字を勝手に嵌めたと考えた方がいいと思います。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月2日(金)06時56分47秒 ]
>> >> 妻木晩田遺跡は弥生後期には衰え、古墳時代には消滅してしまうんですが。
>> >> 投馬国に比定するのは無理がありませんか?
>>
>> 一応,サイトで調べたら次のようでした。
>>
>> 妻木晩田遺跡の全貌(佐古和枝氏)/弥生の前・弥生の後
>> http://www.town.daisen.tottori.jp/site/page/muki/all/outline/yayoi/
>> 「妻木晩田遺跡は、弥生時代だけではありません。」
>>
>> (「」内引用)
>>
>> というわで,弥生時代以前の縄文時代は縄文人の狩り場,
>> 弥生時代に続く古墳時代(特に6〜7世紀)は古墳の宝庫,
>> だそうです。
>>
>> # なんとく大山祇神を連想。
古墳は人の居住を示すものではありません。
一世紀の後半から二世紀にかけて栄えたものの三世紀になると人口激減。古墳時代にはほぼ消滅といって良いでしょう。
http://www.wnn.or.jp/wnn-history/muki/gozen/kouko5.html
「ちょうど妻木晩田遺跡群がうまれて、爆発的に都市的ムラをつくって、ぱっと消えてしまう。その時期が、中国の歴史書に日本、倭がデビューする、そういう時代なんですね。」
投馬国に比定しようと努力するより、何故突然現れ、消えていったか考えたほうが良いような気がします。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月7日(水)21時31分20秒 ]
>> >> おにりんさん らしくもない、ホンとに鎌を使ったか、
>> >> カ(すいません字が出ないので)を使ったか、戟または類似の武器に決まっている。
>> >> いけないもうひとつ有った。
>> >> 逆刃の剣か刀に類するものでしょう。
>> 銅矛、銅戈、銅剣、鏃も骨に刺さった状態で出土しています。
やはり本当に鎌を使ったと考えます。
武器の少ない時代、当然農具は重要な武器でも有るでしょう。
そして、現在でも鎖鎌や中国拳法、沖縄唐手に使い方が伝わっているでは有りませんか。
私ぐらいでも、柳生流の流れの中に鎌を使った戦いかたがあると聞いています。
銅矛、銅戈、銅剣、これは、戦場の消耗品ですよね。
持って居るのは、特別階級でしょう。
鏃、これは元から消耗品。矢として回収できなければ、回収されなくても当然。
鎌類は、そうでは、ありません。重要な生活必需品、生産用具なのですから。また使うのもそう言った貧しい人達です。
必ず回収したでしょう。
また名前は、忘れましたが、円弧を描く剣に類する武器がありますね。
円弧の内側が刃になっているものです。
漫画で言えば、逆刃刀ト言うところがメジャーですかね。
意外といろんな場所で作られているらしいですね。
こんな風に考えます。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)20時28分27秒 ]
>> これは東沃沮伝に続いています。
>> 「句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布、魚、鹽、海中食物、千里擔負致之」
これは「沃沮、東ワイ皆屬焉。」と同じで支配していたということでしょう。
>> 多分、沃沮人が国境まで食料他を運び、それを引き継いで下戸が山道を遥々貴族の所まで運んだのでしょう。
これは何処にもかいてありませんね。
また「句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税」であって沃沮人が運んだのであれば、支配であって
盗賊ではありませんね。
>> わざわざ「坐食者萬餘口」などと書いたのは魏から見てこれが異常と見えたんでしょうね。
>> 何処の国にも貴族がいるけれども高句麗は異常に多いと。
盗賊を生業としているなら、其の方が奇異で直裁に書き残したと思いますが、そんな記述はありませんね。
>> >> >> もともと住んでいたのはかなり高い山の盆地で農作に不向きでろくな産業も無く発展しようの無い所だったのです。
>> >> >> 最初の生業は山賊だった?
>> >> >> むしろ始めから武力だけで周辺の小国を征服して大きくなった国であるような気がします。
>> >> 高句麗文化について、そういう研究結果どこかにありました?
>> 魏志東夷伝を読んで私はそのように解釈したと言う事です。
>> 地図見ても集安なんか緯度は北海道、標高も1000m位、高い山に囲まれた谷底で平地も無い。
直説的な記述も他の証拠もないですね。
「雖力佃作、不足以實口腹。」ですからもともと生業が山賊とは思えません。
本来は農耕牧畜にくわえて狩猟も行っていた、ローマ侵入前の森林のゲルマン民族のような民族じゃなかったんでしょうか。
渤海沿岸や朝鮮半島の農耕地の周辺で、生業的な分業を行い、畑作でふそくする分は交易で補っていたのでしょう。
農耕地域周辺の遊牧民に見られるように、交易のみならず、農耕民に対する略奪も行い、それを恥じない風土もあったかもしれない。
しかしそれが生業なわけではない。
いづれにしろ推測の範囲であって、盗賊集団と決め付ける理由はありませんね。
>>三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
などと断言して論拠にすることは出来ません。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月8日(木)09時44分34秒 ]
>> >> これは東沃沮伝に続いています。
>> >> 「句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布、魚、鹽、海中食物、千里擔負致之」
>> これは「沃沮、東ワイ皆屬焉。」と同じで支配していたということでしょう。
>> >> 多分、沃沮人が国境まで食料他を運び、それを引き継いで下戸が山道を遥々貴族の所まで運んだのでしょう。
>> これは何処にもかいてありませんね。
>> また「句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税」であって沃沮人が運んだのであれば、支配であって
>> 盗賊ではありませんね。
もちろん盗賊というのは極端な表現で収奪もシステム化すれば支配なのでしょう。
民話なにある山に住む鬼が村を支配し、定期的に供物(年貢)や娘を要求し、従わなければ皆殺しにすると言う話と変わらないような。
反撃されないように山の入り口に結界(神社)を設け、鬼の住む村の情報が村人に知られないようにする。
これは日本の民話の話です。(^^;
あ、今でも外務省の機密費なんか機密と言う名の結界をはって鬼どもが税金を収奪していますね。
>> >> わざわざ「坐食者萬餘口」などと書いたのは魏から見てこれが異常と見えたんでしょうね。
>> >> 何処の国にも貴族がいるけれども高句麗は異常に多いと。
>> 盗賊を生業としているなら、其の方が奇異で直裁に書き残したと思いますが、そんな記述はありませんね。
もちろん盗賊などとは書くはずはありません。
支配し年貢と言う形の収奪はどの国も多かれ少なかれやっている事ですから。
ただ高句麗は異常に多いと。
>> >> >> >> もともと住んでいたのはかなり高い山の盆地で農作に不向きでろくな産業も無く発展しようの無い所だったのです。
>> >> >> >> 最初の生業は山賊だった?
>> >> >> >> むしろ始めから武力だけで周辺の小国を征服して大きくなった国であるような気がします。
>> >> >> 高句麗文化について、そういう研究結果どこかにありました?
>> >> 魏志東夷伝を読んで私はそのように解釈したと言う事です。
>> >> 地図見ても集安なんか緯度は北海道、標高も1000m位、高い山に囲まれた谷底で平地も無い。
>> 直説的な記述も他の証拠もないですね。
>> 「雖力佃作、不足以實口腹。」ですからもともと生業が山賊とは思えません。
山賊だって近くの畑でちょっと野菜くらい作るでしょうよ。
なんせ主たる生産地(沃沮やワイ)から100kmも離れているのですから。
>> 本来は農耕牧畜にくわえて狩猟も行っていた、ローマ侵入前の森林のゲルマン民族のような民族じゃなかったんでしょうか。
>> 渤海沿岸や朝鮮半島の農耕地の周辺で、生業的な分業を行い、畑作でふそくする分は交易で補っていたのでしょう。
高句麗の国境は沃沮に接し、沃沮は東を海に接していたのですから渤海沿岸に住んでいたのは沃沮であって高句麗は山の上(慈江道、両江道、咸鏡南道の山側)に限られているのではないでしょうか?
広開土王の頃の高句麗の支配地域よりかなり狭い地域です。
渤海から半島東部に住んで農業や漁業で割と豊富な食料が得られた沃沮やワイは高句麗から収奪を受けながらも耐えられたのでしょう。
>> 農耕地域周辺の遊牧民に見られるように、交易のみならず、農耕民に対する略奪も行い、それを恥じない風土もあったかもしれない。
>> しかしそれが生業なわけではない。
>> いづれにしろ推測の範囲であって、盗賊集団と決め付ける理由はありませんね。
確かに推測でしかありませんが。
>> >>三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
>> などと断言して論拠にすることは出来ません。
なぜ高句麗は作物が取れない山の中で「座食するもの一万人以上」と敵わないまでも魏と戦うほどの「強大な兵を養い」得たかを考えてみましょう。
まっとうに働いて生活するつもりなら山から下りて沃沮やワイと一緒に暮らせば良いんです。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月8日(木)12時06分18秒 ]
>> もちろん盗賊というのは極端な表現で収奪もシステム化すれば支配なのでしょう。
>> 民話なにある山に住む鬼が村を支配し、定期的に供物(年貢)や娘を要求し、従わなければ皆殺しにすると言う話と変わらないような。
>> 反撃されないように山の入り口に結界(神社)を設け、鬼の住む村の情報が村人に知られないようにする。
>> これは日本の民話の話です。(^^;
>> あ、今でも外務省の機密費なんか機密と言う名の結界をはって鬼どもが税金を収奪していますね。
百姓は生かさず殺さずではありませんが、支配の要点は被収奪民が人口再生産可能なレベルに維持し、
その見返りに収奪を受け入れさせて安定した収奪を行うことにあると考えます。
そのためには
被収奪民の間の紛争の調停
被収奪民の外敵からの保護
被収奪民の治安
被収奪民からの収奪のルール作り(徴税システム)
被収奪民の監視
被収奪民が災害・飢饉にあった場合の対応
などの全部又は一部を行う必要があるでしょう。
さもなくば被収奪民は、逃げるか、全滅するまで戦うか、一世代程度で自然消滅してしまうでしょう。
このためには例えば被収奪民の支配階級を優遇して取り込むなどの分断支配も必要になってくるかもしれません。
これらの要素の一部が見られるならば支配といってもいいでしょう。
「句麗復置其中大人爲使者、使相主領、又使大加統責其租税」は支配と思います。
>> もちろん盗賊などとは書くはずはありません。
>> 支配し年貢と言う形の収奪はどの国も多かれ少なかれやっている事ですから。
>> ただ高句麗は異常に多いと。
するとこれはうまくすると永続的なシステムで、この上に都市を建設し、国を開くことができるわけです。
実際高句麗は数百年に渡って、しばしば他民族を支配しながら、民族を継続してゆきます。
唐王朝と新羅に滅ぼされなければ、さらに継続したでしょう。
200-300年程度で自然消滅する例としては使えません。
>> >> >> 魏志東夷伝を読んで私はそのように解釈したと言う事です。
>> >> >> 地図見ても集安なんか緯度は北海道、標高も1000m位、高い山に囲まれた谷底で平地も無い。
>> >> 直説的な記述も他の証拠もないですね。
>> >> 「雖力佃作、不足以實口腹。」ですからもともと生業が山賊とは思えません。
>> 山賊だって近くの畑でちょっと野菜くらい作るでしょうよ。
>> なんせ主たる生産地(沃沮やワイ)から100kmも離れているのですから。
山賊なのですか。
それとも他の民族を支配しているのですか?
どちらだとおっしゃっています。
>> >> 本来は農耕牧畜にくわえて狩猟も行っていた、ローマ侵入前の森林のゲルマン民族のような民族じゃなかったんでしょうか。
>> >> 渤海沿岸や朝鮮半島の農耕地の周辺で、生業的な分業を行い、畑作でふそくする分は交易で補っていたのでしょう。
>> 高句麗の国境は沃沮に接し、沃沮は東を海に接していたのですから渤海沿岸に住んでいたのは沃沮であって高句麗は山の上(慈江道、両江道、咸鏡南道の山側)に限られているのではないでしょうか?
>> 広開土王の頃の高句麗の支配地域よりかなり狭い地域です。
>> 渤海から半島東部に住んで農業や漁業で割と豊富な食料が得られた沃沮やワイは高句麗から収奪を受けながらも耐えられたのでしょう。
高句麗が豊かな農耕地帯に居たとはだれも言っていません。
「渤海沿岸や朝鮮半島の農耕地の周辺で」といっています。
以下の文もそうですね。
>> >> 農耕地域周辺の遊牧民に見られるように、交易のみならず、農耕民に対する略奪も行い、それを恥じない風土もあったかもしれない。
>> >> しかしそれが生業なわけではない。
>> >> いづれにしろ推測の範囲であって、盗賊集団と決め付ける理由はありませんね。
>> 確かに推測でしかありませんが。
>> >> >>三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
>> >> などと断言して論拠にすることは出来ません。
>> なぜ高句麗は作物が取れない山の中で「座食するもの一万人以上」と敵わないまでも魏と戦うほどの「強大な兵を養い」得たかを考えてみましょう。
>> まっとうに働いて生活するつもりなら山から下りて沃沮やワイと一緒に暮らせば良いんです。
異なる生業体系と文化をもっていたからでしょう。
異種族がそう簡単に一緒に暮らせるなら戦争はありません。
またそう簡単に融和できる民族なら独自の民族として残っていなかったでしょう。
もし高句麗人が豊かな農耕地帯に進出するとしたら、先住民族を根絶やしにするか、支配するしかありません。
高句麗はまさに政治的に先住民を支配したわけです。
「魏と戦うほどの「強大な兵を養い」得た」のはその場限りの盗賊稼業ではなく、しっかりした支配の方法を知っていたからでしょう。
高句麗は後に隋の大軍すら打ち破っています。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月8日(木)12時50分37秒 ]
>> 百姓は生かさず殺さずではありませんが、支配の要点は被収奪民が人口再生産可能なレベルに維持し、
>> その見返りに収奪を受け入れさせて安定した収奪を行うことにあると考えます。
>> そのためには
>> 被収奪民の間の紛争の調停
>> 被収奪民の外敵からの保護
>> 被収奪民の治安
>> 被収奪民からの収奪のルール作り(徴税システム)
>> 被収奪民の監視
>> 被収奪民が災害・飢饉にあった場合の対応
>> などの全部又は一部を行う必要があるでしょう。
上記の中で
被収奪民からの収奪のルール作り(徴税システム)と被収奪民の監視
だけは間違いなく行ったでしょう。
美女を差し出す事も含めて。
でもこの程度は民話の中の鬼もやっていたと思います。
どこが違うんでしょう。
>> さもなくば被収奪民は、逃げるか、全滅するまで戦うか、一世代程度で自然消滅してしまうでしょう。
民話の中では誰かヒーローが出てきて助けてくれるまで何もしませんね。
魏はまさに桃太郎だったのかもしれません。
>> このためには例えば被収奪民の支配階級を優遇して取り込むなどの分断支配も必要になってくるかもしれません。
>> これらの要素の一部が見られるならば支配といってもいいでしょう。
だから支配じゃないとは言っていません。
漢とか元とか明、清でも他民族を支配しましたが、すべての被支配民に同じルールで徴税を課し、役人などの取り立ても差別をしないような法律の元に政治を行ったのです。
現実には色々と差別もあったでしょうが。
その結果一つの国になった。
高句麗のやったのは殖民支配ですね。
相手の権利は認めず徴税のルールだけがあった。
だから民族的に同族と思われる沃沮も同じ国とはならなかった。
>> >> もちろん盗賊などとは書くはずはありません。
>> >> 支配し年貢と言う形の収奪はどの国も多かれ少なかれやっている事ですから。
>> >> ただ高句麗は異常に多いと。
>> するとこれはうまくすると永続的なシステムで、この上に都市を建設し、国を開くことができるわけです。
>> 実際高句麗は数百年に渡って、しばしば他民族を支配しながら、民族を継続してゆきます。
正始年間に一度完全に滅んでいるでしょう?
再び国を起こした高句麗はまったく同じではなく他民族をも取り込んで平地(平城)に住み正確がかなり変わっていたんじゃないかと思います。
>> 唐王朝と新羅に滅ぼされなければ、さらに継続したでしょう。
>> 200-300年程度で自然消滅する例としては使えません。
自然消滅したのは妻木晩田で高句麗であるとは言っていませんが?
>> >> >> >> 魏志東夷伝を読んで私はそのように解釈したと言う事です。
>> >> >> >> 地図見ても集安なんか緯度は北海道、標高も1000m位、高い山に囲まれた谷底で平地も無い。
>> >> >> 直説的な記述も他の証拠もないですね。
>> >> >> 「雖力佃作、不足以實口腹。」ですからもともと生業が山賊とは思えません。
>> >> 山賊だって近くの畑でちょっと野菜くらい作るでしょうよ。
>> >> なんせ主たる生産地(沃沮やワイ)から100kmも離れているのですから。
>> 山賊なのですか。
>> それとも他の民族を支配しているのですか?
>> どちらだとおっしゃっています。
他民族を支配しているのですがそれは山賊のやり方と同じと言っています。
>> >> 高句麗の国境は沃沮に接し、沃沮は東を海に接していたのですから渤海沿岸に住んでいたのは沃沮であって高句麗は山の上(慈江道、両江道、咸鏡南道の山側)に限られているのではないでしょうか?
>> >> 広開土王の頃の高句麗の支配地域よりかなり狭い地域です。
>> >> 渤海から半島東部に住んで農業や漁業で割と豊富な食料が得られた沃沮やワイは高句麗から収奪を受けながらも耐えられたのでしょう。
>> 高句麗が豊かな農耕地帯に居たとはだれも言っていません。
>> 「渤海沿岸や朝鮮半島の農耕地の周辺で」といっています。
>> >> >> >>三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
>> >> >> などと断言して論拠にすることは出来ません。
>> >> なぜ高句麗は作物が取れない山の中で「座食するもの一万人以上」と敵わないまでも魏と戦うほどの「強大な兵を養い」得たかを考えてみましょう。
>> >> まっとうに働いて生活するつもりなら山から下りて沃沮やワイと一緒に暮らせば良いんです。
>> 異なる生業体系と文化をもっていたからでしょう。
>> 異種族がそう簡単に一緒に暮らせるなら戦争はありません。
>> またそう簡単に融和できる民族なら独自の民族として残っていなかったでしょう。
高句麗と夫余と沃沮は言葉も似ていて同民族じゃないですか?
生活習慣は違ったらしいが。
>> もし高句麗人が豊かな農耕地帯に進出するとしたら、先住民族を根絶やしにするか、支配するしかありません。
>> 高句麗はまさに政治的に先住民を支配したわけです。
>> 「魏と戦うほどの「強大な兵を養い」得た」のはその場限りの盗賊稼業ではなく、しっかりした支配の方法を知っていたからでしょう。
山賊とか盗賊とか耳障りの悪い言葉使ってますが、私が言っているのは支配者が被支配者を国民として支配するか、殖民地支配をするかです。
普段は山の上に隠れて徴税だけをするのは支配であっても殖民支配で民話に出てくる(鬼)山賊と変わらないと申し上げている。
>> 高句麗は後に隋の大軍すら打ち破っています。
隋の大軍と戦った高句麗とAD240年頃の高句麗とはかなり性格が違うと思いますよ。たぶん。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月8日(木)13時40分09秒 ]
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ルーズベルト 羅斯福
ケネディー 肯尼迪
ジョンソン 約翰遜
ニクソン 尼克斯
フォード 福特
カーター (「上下」を縦に並べて)+特
レーガン 里根
ブッシュ 布什
クリントン 克林頓
マザー・テレサ 特里薩修女
オードリー・ヘップバーン 奥黛麗・赫本
中国語でなんと発言するのか判らないけど同じ「ソン」でも人によって違う。
同じ特が人によって読みが違う。
特里薩ってテレサと読むのかな。
「リー」に麗を嵌めるなんて美女を意識したように思えるけど。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月2日(金)09時44分46秒 ]
>> 古墳は人の居住を示すものではありません。
>> 一世紀の後半から二世紀にかけて栄えたものの三世紀になると人口激減。古墳時代にはほぼ消滅といって良いでしょう。
>> http://www.wnn.or.jp/wnn-history/muki/gozen/kouko5.html
>> 「ちょうど妻木晩田遺跡群がうまれて、爆発的に都市的ムラをつくって、ぱっと消えてしまう。その時期が、中国の歴史書に日本、倭がデビューする、そういう時代なんですね。」
>> 投馬国に比定しようと努力するより、何故突然現れ、消えていったか考えたほうが良いような気がします。
卑弥呼共立時期にはほぼ最盛期ですね。
少なくとも卑弥呼時代の3世紀前半はまだ住居址がかなりありますね。
最盛期ではないですけれども、239年あたりにはまだ重要な拠点のようですが。
平和が確立して、山上都市の必要が少なくなったか。
広い範囲でいっせいに集落の形態が変わる時期ですよね。
まさにぱっと消えていった理由はそのあたりでは?
継続時期としては弥生後期丸ごと(いわゆる庄内期を含む)と言うのがこの遺跡の一般的評価のようです。
庄内期の権力形成を考えるには極めて重要ではないですか。
この時期大きな集落遺跡はほとんどなくなってますから。
他にないですから。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月8日(木)15時06分01秒 ]
>> だから支配じゃないとは言っていません。
なるほど。
>>正始年間に一度完全に滅んでいるでしょう?
>>再び国を起こした高句麗はまったく同じではなく他民族をも取り込んで平地(平城)に住み正確がかなり変わっていたんじゃないかと思います。
丸都は落とされていますが、王朝も本拠地も継続しています。
楽浪郡を占拠してからは中心が移っていますが、それでも旧都の近くには有名な広開土王碑もあります。
>> 他民族を支配しているのですがそれは山賊のやり方と同じと言っています。
山賊のやりかたってなんです?
>> 高句麗と夫余と沃沮は言葉も似ていて同民族じゃないですか?
>> 生活習慣は違ったらしいが。
融和できるなら一つになっていたでしょうね。
理由はわからないが、異なる集団としてお互いを区別していた。
>> >> もし高句麗人が豊かな農耕地帯に進出するとしたら、先住民族を根絶やしにするか、支配するしかありません。
>> >> 高句麗はまさに政治的に先住民を支配したわけです。
>> >> 「魏と戦うほどの「強大な兵を養い」得た」のはその場限りの盗賊稼業ではなく、しっかりした支配の方法を知っていたからでしょう。
>> 山賊とか盗賊とか耳障りの悪い言葉使ってますが、私が言っているのは支配者が被支配者を国民として支配するか、殖民地支配をするかです。
>> 普段は山の上に隠れて徴税だけをするのは支配であっても殖民支配で民話に出てくる(鬼)山賊と変わらないと申し上げている。
私は半島の人じゃありませんから、国の名誉にこだわって用語の話をしているわけではありません。
歴史感覚の問題です。
盗賊と言う言葉でどうゆう実態を表現しているのかと言うことです。
また殖民支配というのは山の中(本拠地)に隠れているのではなくて、殖民する支配のことと思いますが。
山の中に隠れるのは、沃沮が怖かったからでしょうか。
それでは"大人"や"大加"をおいて平和裡に徴税できないと思います。
沃沮が怖くなかったら堂々と平地に進出すればいい。
そうしなかったのはそれだけの理由があるからでは?
高句麗の本拠地にはそれなりの生業があり、執着もあったのでは。
>> >> 高句麗は後に隋の大軍すら打ち破っています。
>> 隋の大軍と戦った高句麗とAD240年頃の高句麗とはかなり性格が違うと思いますよ。たぶん。
時代が下がっていますから同じと言うことはないでしょうが、一連の民族であり国です。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ b頭鬼 ] 日付 [ 11月8日(木)07時34分19秒 ]
>> >> 銅矛、銅戈、銅剣、鏃も骨に刺さった状態で出土しています。
>> やはり本当に鎌を使ったと考えます。
>> 武器の少ない時代、当然農具は重要な武器でも有るでしょう。
>> 銅矛、銅戈、銅剣、これは、戦場の消耗品ですよね。
>> 持って居るのは、特別階級でしょう。
農具も武器として使ったことに異論はありません。
鍬や鋤も本体は木で先だけが鉄ですよね。所謂「鋤先」「鍬先」。
偶発的な戦闘ならお互いに農具も使うかもしれけど、組織して攻める方はどうかナー。
まあ、そんな事態にならないように楼閣を造ってるんでしょうけど。
>> 鏃、これは元から消耗品。矢として回収できなければ、回収されなくても当然。
だからこそ一度に49個も鋳出す鋳型(須玖坂本遺跡)が作られるわけですよネ。
>> 鎌類は、そうでは、ありません。重要な生活必需品、生産用具なのですから。また使うのもそう言った貧しい人達です。
>> 必ず回収したでしょう。
お考えになっているような鎌があったかどうか?
石包丁しか出土していないのでは。
>> また名前は、忘れましたが、円弧を描く剣に類する武器がありますね。
>> 円弧の内側が刃になっているものです。
>> 漫画で言えば、逆刃刀ト言うところがメジャーですかね。
それってヨーロッパの鎌?
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月8日(木)18時56分11秒 ]
>> 丸都は落とされていますが、王朝も本拠地も継続しています。
魏が高句麗を討った時、魏は徹底的に逃げる高句麗を追って渤海まで追い散らしたと聞いていましたが。
魏がいなくなって再び戻ってきただけじゃないですか?
>> 楽浪郡を占拠してからは中心が移っていますが、それでも旧都の近くには有名な広開土王碑もあります。
>> >> 他民族を支配しているのですがそれは山賊のやり方と同じと言っています。
>> 山賊のやりかたってなんです?
高句麗がやっていたようなやり方です。
>> >> 高句麗と夫余と沃沮は言葉も似ていて同民族じゃないですか?>> >> 生活習慣は違ったらしいが。
>> 融和できるなら一つになっていたでしょうね。
>> 理由はわからないが、異なる集団としてお互いを区別していた。
>> >> 山賊とか盗賊とか耳障りの悪い言葉使ってますが、私が言っているのは支配者が被支配者を国民として支配するか、殖民地支配をするかです。
>> >> 普段は山の上に隠れて徴税だけをするのは支配であっても殖民支配で民話に出てくる(鬼)山賊と変わらないと申し上げている。
>> 私は半島の人じゃありませんから、国の名誉にこだわって用語の話をしているわけではありません。
>> 歴史感覚の問題です。
>> 盗賊と言う言葉でどうゆう実態を表現しているのかと言うことです。
私は「爲寇盜」を取り上げて高句麗兵が強盗になったとは言いましたが高句麗を盗賊と言ったのはピクポポデミさんが先ですよ。
>> また殖民支配というのは山の中(本拠地)に隠れているのではなくて、殖民する支配のことと思いますが。
>> 山の中に隠れるのは、沃沮が怖かったからでしょうか。
>> それでは"大人"や"大加"をおいて平和裡に徴税できないと思います。
>> 沃沮が怖くなかったら堂々と平地に進出すればいい。
>> そうしなかったのはそれだけの理由があるからでは?
>> 高句麗の本拠地にはそれなりの生業があり、執着もあったのでは。
得体の知れない物に対する恐怖を演出する為かもしれません。
実態を知られないようにすることでより強い恐怖を与えることが出来ます。
兵が何人いてどのような人々がどのような暮らしをしているか判れば恐ろしさも半減するでしょう。
日本では山に住み恐怖で村民を支配する山賊のことをイメージしてます。
山の入り口に結界を設けそこから先は神域に付き進入禁止にしていることが多いですね。
山賊の実態を知られない為です。
娘まで貢物にださせるなんて民話にでてくる鬼の話にそっくり。
もし日本が律令制が確立した後ならこのような民話は成立しません。
6世紀以前(三世紀?)に日本のあちこちにこのような山賊がいたのでは無いでしょうか。
吉備とかは規模が大きいほう?それに先んじて妻木晩田。平安まで生き残った大江山。
そして一部は山の神と呼ばれ、一部は民話の中で鬼に。
なんて妄想します。
>> 時代が下がっていますから同じと言うことはないでしょうが、一連の民族であり国です。
後には平地(平壌)を首都にしました。そして支配地は一つの国としてまとまり殖民支配ではなかった。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月8日(木)09時30分11秒 ]
>> 「職業軍人」がいて、「軍隊」があって「軍隊内の階級」などがあった可能性も否定できません。
>> と言うのはキーの走りすぎですネ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 弥生中期から階層があったのは考古学的にハッキリしているわけですが。
>>
仰るとおりでしょう。
だから、「職業軍人」、「軍隊」、「軍隊内の階級」と言う言葉はいらないとおもいます。
この時代の首長者層にはその階層としての役目に戦闘行為を含んでいたと考えればすむことでしょう。
まあ普通に考えれば用心棒的な役割を持つでしょう。
>> まあ“合戦”と言える程度のものではなく、小競り合い程度だったと私も思いますヨ。
>>
>>
>>
ですね。「小競り合い」は撤回しましょう。
私がレスした中にあるように弥生中期には各平野ごとに「クニ」として纏まっていたことが考古学的に類推されています。
この場合の「イクサ」はクニ(平野)vsクニ(平野)になるわけで、「あいつら気にくわんから、攻めてやれ」などで起きるものではないでしょう。
>> 「戦争だけを目的とした戦闘行為」は古今東西ないでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
省略失礼m(__)m
>>
>>
平野での集団戦闘が合戦だと仰ってるように受け取りましたが。
確かに矛や戈は集団戦用でしょうが、相手の「略奪行為をしようとする集団」も組織的な戦闘集団だったんでしょうか。
それだったら拠点集落に近づく前に分かるでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
「拠点集落」は考古学的に「クニ」があってその中心となる首長者層がいたと思われる集落ということで使ってます。
何度も書きますが、すでに平野単位の「クニ」があったと考えられる弥生後期に他の「クニ」(平野)にと合戦する理由はなんでしょう。
玄界灘沿岸の奴国(福岡平野)対伊都国(怡土平野)だと半島交易の覇権争いでしょうか。
だとすると、対馬国や一支国がキャスティングボードを握っている。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
クニどうしが反目しあう理由がなんだろうかと言うのが私の上のレスです。
以前二度ほどレスしましたが、北部九州(女王国)と南部九州(狗奴国)の反目は、
青銅製品(銅釧、巴形銅器)による南海産貝製品の駆逐が原因だと思ってます。
元の発言 [ Re: なんじゃこりゃ ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月7日(水)13時21分18秒 ]
いえいえ,なかなかの収穫でした。
いわゆる金属関連ですが,退治される「鬼」とは,
石器派か,青銅器派か,鉄器派か,とかなんとか。
「蟹」の名で呼ばれている辺りは,石器派ふうと言うか,
なんとなく天邪鬼を思わせもするし,
この孝霊伝承は,仏教説話ふうの潤色あり。
物部氏が,ナガスネヒコ派と神武派に分裂したと考えれば,
退治された鬼というのは,鉄器派ではあろうが,
ナガスネヒコ派の残党かな,とか。
イザナキ・イザナミが絡んでいるので,
この鬼とは黄泉軍(悪霊邪鬼)のようでもあるし。
「笹」で追い払う,という辺りは,
天鈿女が振った小竹葉(ささば)を連想させますが,
紀氏と言えば家紋は「九枚笹」とのことです。
社家の姓氏-紀氏-
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_kii.html
どうも,天道根命−紀氏の線で,
鏡と天照大神祭祀の課題が出てくるので,
卑弥呼問題と絡むかもしれない。
ところで,
紀氏絡みで,「投馬の忌部」なる謎の地名が,
和歌山にあるというし,
紀氏の謎2
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kisi2.html
紀長谷雄が鬼と双六に勝って美女を手に入れたが,
また失う,という『御伽草子』の話も。
平群坐紀氏神社
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpawe708/jinja/benkyou/hegurinimasukinouji.htm
この辺りは,武内宿禰−の線から,神功皇后,卑弥呼,
北陸の課題あり。
そんで,
孝霊妃・細媛命は鉄器派という物部氏の出身と言われますが,
伯耆国妻木の朝妻という人も,やはり,
美女→天女→鉄の道の女という部類か,とか。
鶯王と聞くと,声が良さそうですが,
玉,鐸,出雲の土笛(?)などと関連するのか,とか。
>> 孝霊天皇は「御丈七尺、御面躰青く、
>> 面頭には三尺の角あり。飛行自在の天皇なり」。
こっちのほうが鬼みたいな形象ですね,,,(^◇^)
仏像というか鬼神というか役小角というか,そんな印象。
ところで,
「三尺の角」という辺りは,
谷川説によると,古代中国の蚩尤(しゆう)は,
銅頭鉄額で鉄を食う鉄人であり,頭に角があり,
武器生産の神である,ということです。
(『青銅の神の足跡』)
「ツヌガアラシト」伝説についての同氏の解答です。
そんで,
「御丈七尺、御面躰青く」という辺りは,
大型の古びた銅鐸のようでもあるか。
「浅茅原・・・百伝ふ鐸(ぬて)響(ゆら)くも」(顕宗記)
みたいな歌謡もありますから,
この「百伝ふ鐸」とは,
大田田根子/倭迹迹日百襲姫命の「神浅茅原」に地名が絡む,
ってな一説も。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月8日(木)21時34分23秒 ]
>> 魏が高句麗を討った時、魏は徹底的に逃げる高句麗を追って渤海まで追い散らしたと聞いていましたが。
>> 魏がいなくなって再び戻ってきただけじゃないですか?
もどってきて継続したのです。
ところで三国志魏書は西晋時代の成立ですが、
高句麗の不在は一年と続かなかった様なので、
三国志の高句麗伝は母丘の遠征後の社会風俗を描いている可能性があります。
>> >> 楽浪郡を占拠してからは中心が移っていますが、それでも旧都の近くには有名な広開土王碑もあります。
すいません。
遷都は427年でした。
楽浪郡を占領してから100年以上後ですね。
>> >> >> 他民族を支配しているのですがそれは山賊のやり方と同じと言っています。
>> >> 山賊のやりかたってなんです?
>> 高句麗がやっていたようなやり方です。
山賊というのは税を納めさせるのですか?
>> 私は「爲寇盜」を取り上げて高句麗兵が強盗になったとは言いましたが高句麗を盗賊と言ったのはピクポポデミさんが先ですよ。
そうですね、牛頭さんは山賊とおっしゃったのですね。
私は山賊は盗賊の一種と思っていましたから。
>> 得体の知れない物に対する恐怖を演出する為かもしれません。
>> 実態を知られないようにすることでより強い恐怖を与えることが出来ます。
>> 兵が何人いてどのような人々がどのような暮らしをしているか判れば恐ろしさも半減するでしょう。
>> 日本では山に住み恐怖で村民を支配する山賊のことをイメージしてます。
>> 山の入り口に結界を設けそこから先は神域に付き進入禁止にしていることが多いですね。
>> 山賊の実態を知られない為です。
そのためにわざわざ”主たる生産地(沃沮やワイ)から100kmも離れ”た所から税金を取ったり、監視したりするのですか。
>> 娘まで貢物にださせるなんて民話にでてくる鬼の話にそっくり。
人間を差し出すのはよくある事です。
倭人も生口を差し出してますし。
>> もし日本が律令制が確立した後ならこのような民話は成立しません。
>> 6世紀以前(三世紀?)に日本のあちこちにこのような山賊がいたのでは無いでしょうか。
>> 吉備とかは規模が大きいほう?それに先んじて妻木晩田。平安まで生き残った大江山。
>> そして一部は山の神と呼ばれ、一部は民話の中で鬼に。
>> なんて妄想します。
妄想ですね。
>> >> 時代が下がっていますから同じと言うことはないでしょうが、一連の民族であり国です。
>> 後には平地(平壌)を首都にしました。そして支配地は一つの国としてまとまり殖民支配ではなかった。
想像以外の根拠はありますか。
そもそも植民地だとか一つの国としてまとまったとか、実体が分かりません。
平壌を首都にするのは5世紀に入ってからのようですね。
広開土王碑の後ですね。
集安にも高句麗時代の立派な遺跡が残っていて、山賊の巣とはおもえません。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月9日(金)01時19分35秒 ]
>> 山賊というのは税を納めさせるのですか?
山賊が税(貢)を納めさせてはいけないですか?
>> >> 日本では山に住み恐怖で村民を支配する山賊のことをイメージしてます。
>> >> 山の入り口に結界を設けそこから先は神域に付き進入禁止にしていることが多いですね。
>> >> 山賊の実態を知られない為です。
>> そのためにわざわざ”主たる生産地(沃沮やワイ)から100kmも離れ”た所から税金を取ったり、監視したりするのですか。
そうです。
>> >> 娘まで貢物にださせるなんて民話にでてくる鬼の話にそっくり。
>> 人間を差し出すのはよくある事です。
>> 倭人も生口を差し出してますし。
わざわざ美女を選りすぐってね。
倭人は強制された訳ではありませんよね。高句麗は強制した。
>> 想像以外の根拠はありますか。
東夷伝をフィルターを掛けずに素直に読めばそう解釈できるのです。
>> 集安にも高句麗時代の立派な遺跡が残っていて、山賊の巣とはおもえません。
立派な家に住んでいれば正義の人たちなんですか?
国家として犯罪行為を容認したり、推進したりしている国は現在でもありますから。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月8日(木)22時25分28秒 ]
>> この時代の首長者層にはその階層としての役目に戦闘行為を含んでいたと考えればすむことでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
北部九州の墳丘墓における副葬品の状態から、仰るような状態が読み取ることが可能ですネ。
武器と鏡などを副葬し独立墳丘を持つもの(オウ)と武器だけ(多くは一個)を持ち墳丘墓に葬られた首長者層(カシラ)、
そして何も副葬品のない庶民、もちろん墓すら持たない最下層もいたでしょう。
>>
>>
そういう組織だった「クニ」が集落略奪をやるということが疑問です。
>> まあ普通に考えれば用心棒的な役割を持つでしょう。
>>
>> 私がレスした中にあるように弥生中期には各平野ごとに「クニ」として纏まっていたことが考古学的に類推されています。
>>
高地性集落は逃城あるいは烽火場(最近はこちらの例が増えてる)でしょう。
いわゆる拠点集落ではないとおもいます。
>> この場合の「イクサ」はクニ(平野)vsクニ(平野)になるわけで、「あいつら気にくわんから、攻めてやれ」などで起きるものではないでしょう。
>>
「あいつら気にくわんから、攻めてやれ」では戦争になるだけの動機にはならないと申し上げたんですが。(^_^;)
>> 平野での集団戦闘が合戦だと仰ってるように受け取りましたが。
>>
>>
>>
>>
>>
「クニ」と「クニ」との中間地点でしょう。二日市地峡帯や筑後川河川敷、菊池山地のような。
>>
そういうのは戦争とか合戦といいますかネ?
>>
>>
これは考えられますネ。
ただし、それらは「クニ」といえるものではないでしょう。「クニ」にとってある程度の脅威にはなったでしょうが。
>>
>>
>>
信長の長槍組も集団戦闘です。西洋式の方形陣であったとは思いませんが、
矛や戈は集団で使用するものでしょう。特に防衛には有効でしょう。
少なくとも単独で振り回しても剣の方が有利じゃないですか。
>> 「拠点集落」は考古学的に「クニ」があってその中心となる首長者層がいたと思われる集落ということで使ってます。
>>
>>
「拠点集落」と言うのは考古学的単語です。意味は私が使っている通り。
首長居館は最初拠点集落内の内郭として出現し、古墳時代に集落の外に移る。
そして集落そのものが解体すると言うのが最も有力な説です。
>> 何度も書きますが、すでに平野単位の「クニ」があったと考えられる弥生後期に他の「クニ」(平野)にと合戦する理由はなんでしょう。
>>
>> クニどうしが反目しあう理由がなんだろうかと言うのが私の上のレスです。
>>
>>
>>
お家騒動、例えば「クニ」内部での首長者同士の争いであれば「クニ」対「クニ」の「イクサ」とは言えんでしょう。
「倭国大乱」のレベルではないと思います。
>>
>>
>>
九州とは関係なく瀬戸内以東で一種の「イクサ」があったとすることに反対する理由はありません。
なにせ、「東海の倭種」ですから。(^。^)
>> 以前二度ほどレスしましたが、北部九州(女王国)と南部九州(狗奴国)の反目は、
>> 青銅製品(銅釧、巴形銅器)による南海産貝製品の駆逐が原因だと思ってます。
>>
>>
三世紀に入って衰退が見られる九州と、
二世紀末に大規模な土木工事を行う余剰があった近畿、
戦争があったとすればどちらでしょう。
そうそう蛇足ですが、八女から大規模な弥生後期の鍛治工房跡が発見されました。
#以下は私の疑問
1.九州は「国乱相攻」あっていて卑弥呼を立て一時的に収まったが、卑弥呼が死んで再び「国乱相攻」たため衰退していった。
2.大和は「国乱相攻」ながら大古墳を造りながら、大陸と交易関係を持ち武器も豊富な玄界灘沿岸の国々をも支配下に収めることができた。
#どちらの確率が高い?
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月9日(金)23時38分52秒 ]
>>
略奪は戦闘行為の結果として行われるのであって、主従の関係ではないと思います。
以下はこのスレッドの論点から大きく外れるのでレスしません。悪しからず。m(__)m
>>
>>
>>
信長はそうしましたネ。
>>
>>
>>
半ば兵に対する報酬とした武将もいたようです。
>> 高地性集落は逃城あるいは烽火場(最近はこちらの例が増えてる)でしょう。
>> いわゆる拠点集落ではないとおもいます。
>>
>>
>>
貝塚?高地ですよ、浅学にしてそのような遺跡を知りません。
>>
>>
>>
環濠集落にそのような性格を見る人もいます。
多くが丘などの小高い所にある。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
レス下通りです。
>> 「あいつら気にくわんから、攻めてやれ」では戦争になるだけの動機にはならないと申し上げたんですが。(^_^;)
>>
>>
>>
おにりんさんの言うのは「口実」ってことですネ。
それはわかりますが、私が当初からお聞きしているのは「理由」です。
>> 「クニ」と「クニ」との中間地点でしょう。二日市地峡帯や筑後川河川敷、菊池山地のような。
>>
>> >> 略奪を目的にするなら、夜盗的行為のほうが効率がよいですね。夜攻めるとか。
>> そういうのは戦争とか合戦といいますかネ?
>>
>>
>>
>>
???そういうのは戦争とか合戦といいますかネ?と言うレスに対する肯定???
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> これは考えられますネ。
確かに、それが大きくなって「イクサ」になることはありえます。
日中戦争の切欠は関東軍の暴発だりするし。
でも、それらは“切欠”であって日中戦争の“原因”はべつにあるでしょう。
>> ただし、それらは「クニ」といえるものではないでしょう。「クニ」にとってある程度の脅威にはなったでしょうが。
>>
>>
>>
>>
ここで主題になっているのは「倭国大乱」で、「クニ」対「クニ」の「イクサ」じゃなかったんですか。
「クニ」対「クニ」の「イクサ」があったから「女王国」ができたんでしょう。どの様なものだったかは別にして。
>> 「拠点集落」と言うのは考古学的単語です。意味は私が使っている通り。
>> 首長居館は最初拠点集落内の内郭として出現し、古墳時代に集落の外に移る。
>> そして集落そのものが解体すると言うのが最も有力な説です。
>>
>>
>>
吉野ヶ里の北内郭みたいなものでしょうか。南内閣もあるでヨ。
>> お家騒動、例えば「クニ」内部での首長者同士の争いであれば「クニ」対「クニ」の「イクサ」とは言えんでしょう。
>>
>>
はい、何だったんでしょう。
って、これが私のレスのそもそもの主題でしょうが。(^_^;)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
九州の土器は一番最後に入ってるんじゃなかったかナ。
青谷上寺地遺跡から海上交易拠点であった資料が出土しましたネ。
近畿が大陸との交易権を獲ようと思ったらこちらを狙ったでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
「邪馬台国=倭国植民地論」ですか。
そうすると「日本舊小國、併倭國之地」ってことか。(^。^)m(__)m
>>
>>
>>
>>
>>
>>
何言ってんですか。(^ム^)
「邪馬台国が九州にあったとしたら」九州にあったのは卑弥呼の「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」でしょうが、
「邪馬台国が近畿にあってそれが九州から移ってきた連合体」だとしたら????
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月8日(木)20時37分34秒 ]
>> >> >> 銅矛、銅戈、銅剣、鏃も骨に刺さった状態で出土しています。
>> >> やはり本当に鎌を使ったと考えます。
>> >> 武器の少ない時代、当然農具は重要な武器でも有るでしょう。
>> >> 銅矛、銅戈、銅剣、これは、戦場の消耗品ですよね。
>> >> 持って居るのは、特別階級でしょう。
>> 農具も武器として使ったことに異論はありません。
>> 鍬や鋤も本体は木で先だけが鉄ですよね。所謂「鋤先」「鍬先」。
>> 偶発的な戦闘ならお互いに農具も使うかもしれけど、組織して攻める方はどうかナー。
>> まあ、そんな事態にならないように楼閣を造ってるんでしょうけど。
確かに鋤や鍬は、とっさの武器だとももうでしょうね。一面事実でしょう。
ですがそうではないのですよ。
鋤でも鍬でも、種類を選べば、向かないなんてとんでもない間違いです。
それに、元々は農具工具猟具でも正規軍の武器として採用されたものは、山ほどありあす。
西洋では、鎌やホークやトライデントが、特に鎌は、死神宜しく大鎌が使われてますし。
東では、有名なところで西遊記、猪 八戒の馬鍬は、どうです。
共通するところは、連接棒でしょう、脱穀用の道具です。
確か、沙 悟浄のサンもそうだったと思うのですが、思い出しました元々の形は、シャベルだったんですね。
現在でも戦場では、道具件武器として使われてますね。
>> >> 鏃、これは元から消耗品。矢として回収できなければ、回収されなくても当然。
>> だからこそ一度に49個も鋳出す鋳型(須玖坂本遺跡)が作られるわけですよネ。
>> >> 鎌類は、そうでは、ありません。重要な生活必需品、生産用具なのですから。また使うのもそう言った貧しい人達です。
>> >> 必ず回収したでしょう。
>> お考えになっているような鎌があったかどうか?
>> 石包丁しか出土していないのでは。
少し形は違うでしょうが、有ったと考えています。
戦国時代からあるものですし、孔子の弟子の中に商っているものが居ましたよね。
中国武術や沖縄武術、柳生流の流れのなかにも使い方があります。
それだけ身近な道具なんでしょう。
>> >> また名前は、忘れましたが、円弧を描く剣に類する武器がありますね。
>> >> 円弧の内側が刃になっているものです。
>> >> 漫画で言えば、逆刃刀ト言うところがメジャーですかね。
>> それってヨーロッパの鎌?
これも有名なところでは、鉤状の武器と曲刀があります。
鉤浄な武器では、ペルセウスがメデゥーサの首をはねた武器がポピュラーでしょう。
曲刀ですが円弧の内側に刃が着いているものが多いのです。
洋の東西をとはず作られているようですが、これには理由もありまして、
この形のほうが、鉄の場合作りやすいようです。
細い片刃の場合まっすぐに作るのは、難しいんだそうです、背中のほうが刃のほうより当然厚くなるわけですが、
焼入れのとき背中のほうが伸びて逆に反ってしまうのだそうです、
乱暴な説明だと、ククリナイフ(ランボーの映画などで有名ですね、しゃれになっちゃいましたが)イメージして細長くしたものと思ってください
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月10日(土)20時51分45秒 ]
>> >> 理由はなんであれ、「あいつら気にくわん」がないと、戦争
>> >> にはならないっていうことです。それが戦争をするための、
>> >> 「理由」です。大義名分は別にあるかもしれませんが。
>> おにりんさんの言うのは「口実」ってことですネ。
>> それはわかりますが、私が当初からお聞きしているのは「理由」です。
そんんこと言っても、無駄だと思いますけど。
銀河英雄伝説のやンの言葉だけど「戦争の半分は、後世の人達があきれるような理由でおきている。」
「そしてもう半分は、その時代の人があきれるような理由でおきていると」
これ真理じゃないですか、ただ遊牧民身は略奪と言うのは、生産手段だったって事がきには成りますが。
>> >> 略奪行為が正当化される。
>> >> で、反対側もやり返す。
>> >> >> これは考えられますネ。
>> 確かに、それが大きくなって「イクサ」になることはありえます。
>> 日中戦争の切欠は関東軍の暴発だりするし。
>> でも、それらは“切欠”であって日中戦争の“原因”はべつにあるでしょう。
>>
>> >> >> ただし、それらは「クニ」といえるものではないでしょう。「クニ」にとってある程度の脅威にはなったでしょうが。
>> >> 開明的な都市住民、都市をあやつる権力者の庇護下の小村落
>> >> の住民などは、いわば、文明化された人々というわけですが
>> >> それ以外にも大量の「浮浪民」とか「山岳民」とか、いろいろ
>> >> いたはずです。
>> ここで主題になっているのは「倭国大乱」で、「クニ」対「クニ」の「イクサ」じゃなかったんですか。
>> 「クニ」対「クニ」の「イクサ」があったから「女王国」ができたんでしょう。どの様なものだったかは別にして。
>> >> >> 「拠点集落」と言うのは考古学的単語です。意味は私が使っている通り。
>> >> >> 首長居館は最初拠点集落内の内郭として出現し、古墳時代に集落の外に移る。
>> >> >> そして集落そのものが解体すると言うのが最も有力な説です。
>> >> はい。わかっています。が、戦国時代的に考えれば、内郭
>> >> にあったのは、むしろ、「宗教的権威者」で、軍事的権威者
>> >> ではなかった可能性もあります。
>> 吉野ヶ里の北内郭みたいなものでしょうか。南内閣もあるでヨ。
>> >> >> お家騒動、例えば「クニ」内部での首長者同士の争いであれば「クニ」対「クニ」の「イクサ」とは言えんでしょう。
>> >> もっとも、倭国の乱は、西日本全土を巻き込んだものです
>> >> から、もっと深刻なものだったんでしょうね。なんだろう。
>> はい、何だったんでしょう。
>> って、これが私のレスのそもそもの主題でしょうが。(^_^;)
>> >> 近畿というか、なんつうか、吉備あたりは、環濠集落をとい
>> >> いているんですから、そこには、組織化された軍隊がいた
>> >> のかもしれません。で、瀬戸内海が緊張状態になる。
>> >> その段階にいたっても、九州はそれなりに、大陸との関係
>> >> があって、「威信」があるんで、吉備あたりがそれをほし
>> >> がるのもありそうだ。その段階で、北部九州と山陰と北陸
>> >> と近畿が手を結んで対吉備の体制を作ろうとする、なんて
>> >> いうのは、土器の移動から見えることではあります。
>> 九州の土器は一番最後に入ってるんじゃなかったかナ。
>> 青谷上寺地遺跡から海上交易拠点であった資料が出土しましたネ。
>> 近畿が大陸との交易権を獲ようと思ったらこちらを狙ったでしょう。
>> >> やっぱり、纏向あたりの勢力は、近畿の地場の勢力じゃあな
>> >> いと思います。なんか、北部九州から、山陰、北陸そういう
>> >> ところの「権威」をうけて、うつってきた連合体だと思います。
>> >> それが、卑弥呼擁立母体であり、卑弥呼の即位とともに、
>> >> 吉備との連合もなったということなのかもしれません。
>> 「邪馬台国=倭国植民地論」ですか。
>> そうすると「日本舊小國、併倭國之地」ってことか。(^。^)m(__)m
>> >> どっちにせよ、九州にはそういう3世紀前半における勢力
>> >> の母体が、たぶん、北部九州の伊都国、奴国の近辺以外には
>> >> 見出されないのですから、邪馬台国が九州にあったとしたら、
>> >> それは、大和氏のいうような、卑弥呼の臨宮でしょう。
>> >> こればっかりは否定できないし、小説のネタとしては面白い
>> >> んですがね。
>> 何言ってんですか。(^ム^)
>> 「邪馬台国が九州にあったとしたら」九州にあったのは卑弥呼の「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」でしょうが、
>> 「邪馬台国が近畿にあってそれが九州から移ってきた連合体」だとしたら????
そう言えば、海賊と商人の区別のない時代で、度のようにバランスとっていたんでしょうね。区別と言う意味ですが?
これ考えると意外と牛頭サンの意見もあっているのかも?
ただ、貿易と外に出て海賊していたバイキングの拠点のようだと言う意味ですけど。
やはりそう言う報復を恐れていたのかも。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月9日(金)21時21分42秒 ]
>> >> >> 平野での集団戦闘が合戦だと仰ってるように受け取りましたが。
>> >> いや、合戦が平野で行われるというわけではないけど、、。
>> >> むかしからの、戦場としては、「なんたら峠」とか、そういう
>> >> のも多いでしょうけどね。
>> >> 山岳戦闘もあるし、でも、重要なことは、住民の住んでいる
>> >> 集落から離れた地点での戦闘っていう意味です。
>> 「クニ」と「クニ」との中間地点でしょう。二日市地峡帯や筑後川河川敷、菊池山地のような。
>> >> 略奪を目的にするなら、夜盗的行為のほうが効率がよいですね。夜攻めるとか。
>> そういうのは戦争とか合戦といいますかネ?
戦争じゃないんですかね?
やってると言うか仕掛けるのが国と言えるなら!
>> >> 人的つながりで、山岳民、狩猟民のようなものをある程度抑えるようなリーダーだといろいろなことをしたでしょう。
>> >> 忍者みたいな。
>> これは考えられますネ。
>> ただし、それらは「クニ」といえるものではないでしょう。「クニ」にとってある程度の脅威にはなったでしょうが。
大国が、辺境山岳民族(大国から見て)を守備兵に使う例は非常に多いですよ。
大元帥明王を意味するアタバクとは、そのことだと言う接を聞いたことがあるような?
>> >> 集団戦闘の、陣形をとって、というのは、どうだったんで
>> >> しょうね。あれはいったいいつのどういう時代において
>> >> 有効だったのか、、、。
>> 信長の長槍組も集団戦闘です。西洋式の方形陣であったとは思いませんが、
>> 矛や戈は集団で使用するものでしょう。特に防衛には有効でしょう。
>> 少なくとも単独で振り回しても剣の方が有利じゃないですか。
ご冗談を、あなたは、剣道なんかのご経験は、ございますか。
恥を言うんですけどもう事項だと言うことにして。
剣道をはじめた頃、冗談ですが強がって女性のなぎなたと構え有ったことがあるんですが。
怖かった、打ち合わず冗談で済ましましたが、恥をかく寸前出したよ。
ながものと剣、できれば願い下げにしたいと思いましたよ。ホンとに!
>> >> >> 「拠点集落」は考古学的に「クニ」があってその中心となる首長者層がいたと思われる集落ということで使ってます。
>> >> うーん、首長が山にいた可能性、あるいは、首長が、居館
>> >> にいた可能性もあるのが、古墳時代初期段階ですかね。
>> 「拠点集落」と言うのは考古学的単語です。意味は私が使っている通り。
>> 首長居館は最初拠点集落内の内郭として出現し、古墳時代に集落の外に移る。
>> そして集落そのものが解体すると言うのが最も有力な説です。
>> >> >> 何度も書きますが、すでに平野単位の「クニ」があったと考えられる弥生後期に他の「クニ」(平野)にと合戦する理由はなんでしょう。
>> >> わかりません。平野単位でも、いろいろな利害はありますので。
>> >> >> クニどうしが反目しあう理由がなんだろうかと言うのが私の上のレスです。
>> >> だとしたら、魏志倭人伝にある倭国の乱はなんでおこったのでしょうか?
>> >> お家騒動かもしれませんね。壬申乱はお家騒動ですね。
>> >> 宗教的なものだたのかも。
>> お家騒動、例えば「クニ」内部での首長者同士の争いであれば「クニ」対「クニ」の「イクサ」とは言えんでしょう。
>> 「倭国大乱」のレベルではないと思います。
>> >> どっちにせよ、その主戦場は、瀬戸内海以東で、九州は
>> >> あんまり倭国の乱とは関係なかったとというのはどうです?
>> >> 高地性集落の分布も瀬戸内海が中心です。
>> 九州とは関係なく瀬戸内以東で一種の「イクサ」があったとすることに反対する理由はありません。
>> なにせ、「東海の倭種」ですから。(^。^)
>> >> >> 以前二度ほどレスしましたが、北部九州(女王国)と南部九州(狗奴国)の反目は、
>> >> >> 青銅製品(銅釧、巴形銅器)による南海産貝製品の駆逐が原因だと思ってます。
>> >> いや、きっと、九州は戦争なんてなかったんでしょう。
>> >> だから、女王国ではありえない。
>> 三世紀に入って衰退が見られる九州と、
>> 二世紀末に大規模な土木工事を行う余剰があった近畿、
>> 戦争があったとすればどちらでしょう。
>> そうそう蛇足ですが、八女から大規模な弥生後期の鍛治工房跡が発見されました。
>> #以下は私の疑問
>> 1.九州は「国乱相攻」あっていて卑弥呼を立て一時的に収まったが、卑弥呼が死んで再び「国乱相攻」たため衰退していった。
>> 2.大和は「国乱相攻」ながら大古墳を造りながら、大陸と交易関係を持ち武器も豊富な玄界灘沿岸の国々をも支配下に収めることができた。
>> #どちらの確率が高い?
大和朝廷で、隼人の兵が使われていましたねそん案おにつながるのかな?
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月8日(木)16時05分22秒 ]
>> ルーズベルト 羅斯福
>> ケネディー 肯尼迪
>> ジョンソン 約翰遜
>> ニクソン 尼克斯
>> フォード 福特
>> カーター (「上下」を縦に並べて)+特
>> レーガン 里根
>> ブッシュ 布什
>> クリントン 克林頓
>> マザー・テレサ 特里薩修女
>> オードリー・ヘップバーン 奥黛麗・赫本
>> 中国語でなんと発言するのか判らないけど同じ「ソン」でも人によって違う。
>> 同じ特が人によって読みが違う。
>> 特里薩ってテレサと読むのかな。
>> 「リー」に麗を嵌めるなんて美女を意識したように思えるけど。
で、結局振り大に戻るんですけど。
1.まず卑弥呼の名は、とにかく中国語がしゃべれて漢字が書ける人間が字を着けた。
2.その場合、日本に居る人間が当てて文書にして提出したか中国の使者が、
当てて報告書にしたかどちらかである。
3.その使者が聞いたとした場合、その名前を聞いたとき日本語の音韻の変化を知らないから、
接頭語による変化やアクセントによる変化により正確な発音でない可能性もある。
4.卑弥呼側が文書にした場合は、性格である可能性がある。
手言うことに成りますね。
この時代に、シャーマンだった卑弥呼だからこれが本名であるはずがない。
本名を知られることは、完全に支配されることを意味すると考えているだろうから。
好くて、通り名でしょうね。
後気がついたんですが、字を当てた人何処の出身だったんでしょう?
それによって、当てる字が違ってくるんでは?
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月11日(日)02時21分14秒 ]
割り込みます。
こんにちわ。
>> 後気がついたんですが、字を当てた人何処の出身だったんでしょう?
>> それによって、当てる字が違ってくるんでは?
現在、北京語とか広東語、福建後、上海語など
みんな随分発音がちがうんだけど、当時も当然違うと
思うんですよ。
ですから馬頭鬼さんの言われるように、出身地の違いで
字が変わることもあると思います。
酒でも、北京語は「ジュウ」のような音だし
台湾語では「ジョウ」みたい、広東語だと
「チョウ」のように聞こえます。
日本人がそれを聴いて漢字に直したとしたら
従だったり、情だったり、蝶のようになるでしょう。
あと、その人間がヒミコだろうがピミハだろうが
確定できればいいのであって、たいした問題では
ないのではないですか。直接会うわけでもない、
書類として書いてあれば良いとなると。
日本人にはモウタクトウでいいのであって、モウゾウトン
という必要もないわけで。
ただ彼が特定できればそれでいい。
直接話ができなければ、通訳がつきますので、
たとえば日本人がモウタクトウさんとか言っても
通訳はモウゾウトン先生とか訳しますのでね。
卑弥呼の字をあてた人が誰かによって、音が違っていることは十分にありますよね。
確かにピミハのようであったであろうという確率は
高いのだろうけど、絶対にこうだというだけの理由は
見つからないのも事実でしょう。
元の発言 [ Re: アジア人は北回りでやって来た ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月9日(金)15時24分02秒 ]
>>
#「多く」ではなくて「基本的には、すべて」と考えました。
(もちろん混血が、特に東南アジアやどんづまり地形の日本で、かなり行われていることを否定するわけではありません。)
>>
>>
#です。
>>
>>
#あきらかにそうです。で、この人たちは「モンゴロイド」ではない。
太古のネイティブ・アメリカンを主人公にしたの小説を書き、多くのネイティブ・アメリカンを訪ね歩いた作家の星川淳は、アボリジニを訪ねて「これはモンゴロイドではない」と書いています。
私はこういう「非論理」は信用できると思います。
>>
>>
#肌の色から判断して、東南アジアの大陸部は8割がた北まわり系だと思います。インドネシアは5割ほどでしょう。
>>
#不賛成。この分野の本(普通に市販される一般読者向けの本)を十数冊チェックしましたが、埴原の本を含んで北回り説を明確に記述したものはありません。
#日本列島へ、北から来たか南から来たかの議論はありますが、これは私が論じている問題とは時代が違います。北回りで東アジアへやってきて、いったん中国南部に住み着いた人々が南から日本にやってきたことは十分に可能です。
>>
>>
>>
#北回り説は、宝来の研究が示している、分岐年代が12万年前にさかのぼる日本人の2大グループを非常にスマートに説明できます。南回り・北回りの視点でデータを集め直したら、もう少しはっきりした結論が得られるかもしれないと思います。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月11日(日)15時29分26秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
魏が成立した220年当時は倭の情報は「長老説有異面之人、近日之所出」程度しかないでしょう。
「卑弥呼」に付いて公孫氏側が申し送りをしたと言うのは考えすぎでしょう。
>> 3.その使者が聞いたとした場合、その名前を聞いたとき日本語の音韻の変化を知らないから、
>> 接頭語による変化やアクセントによる変化により正確な発音でない可能性もある。
>>
>>
>>
外国語をカタカナ使っても正確な発音は表せていない。
日本語の発音を漢字で正確に表す事も不可能です。
微妙な中間母音なんか聞き違えも起き易いし。
>> 後気がついたんですが、字を当てた人何処の出身だったんでしょう?
>> それによって、当てる字が違ってくるんでは?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
日本のような小さい国でさえ方言が多いのに中国のような大きい国で方言が無い筈が無い。
呉越は南蛮と呼ばれていた。など方言が存在した可能性がある。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
漢音と呉音はこの頃できたのですか?呉とか漢はもう無くなっていたのに。
>>
>>
>>
「ヤマ」と言う読み方も呉音ですよね。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月11日(日)01時13分44秒 ]
初めまして、景虎と申します。
今までROMしてましたが、ちょっとだけ書きこみます。
>> 確かに鋤や鍬は、とっさの武器だとももうでしょうね。一面事実でしょう。
>> ですがそうではないのですよ。
>> 鋤でも鍬でも、種類を選べば、向かないなんてとんでもない間違いです。
>> それに、元々は農具工具猟具でも正規軍の武器として採用されたものは、山ほどありあす。
>> 西洋では、鎌やホークやトライデントが、特に鎌は、死神宜しく大鎌が使われてますし。
西洋の鎌は知りませんが、日本(内地の古武道。琉球古流は知りません)で使用
される鎌は、農作業に使う鎌ではなく、刀鍛冶が武器として作った鎌ですね。
勿論、最初は作業用の鎌を使っていたと思いますが。
>> 少し形は違うでしょうが、有ったと考えています。
>> 戦国時代からあるものですし、孔子の弟子の中に商っているものが居ましたよね。
>> 中国武術や沖縄武術、柳生流の流れのなかにも使い方があります。
>> それだけ身近な道具なんでしょう。
中国武術に鎌術ってあるんですか?
日本独自の武術だと思っていたのですが。
>> >> >> また名前は、忘れましたが、円弧を描く剣に類する武器がありますね。
>> >> >> 円弧の内側が刃になっているものです。
>> >> >> 漫画で言えば、逆刃刀ト言うところがメジャーですかね。
>> >> それってヨーロッパの鎌?
>> これも有名なところでは、鉤状の武器と曲刀があります。
>> 鉤浄な武器では、ペルセウスがメデゥーサの首をはねた武器がポピュラーでしょう。
日本の内反り刀としては、タケミカヅチの愛刀のフツノミタマノツルギというのが
ありますね。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月11日(日)16時04分12秒 ]
いや、音韻についてはおにりんさんはよく知ってみえるの
はわかっていますから、別にいいんですが、、
ヒミコだろうがピミハだろうがと書いたのは、どんな
呼び方であろうが、彼女だと確定できればいいという
話です。
今トヨとかイヨとか、どちらで書いてもここのメンバー
ならば誰のことを書いているのかわかっていますよね。
それと同じことだということです。
そういう意味です。
そして、方言といっても詳しいことは知りませんが
中国語は表意文字であっても、表音文字ですから
文法まで変わっていなくても、音が違うだろうと
いうことを言っているのです。
漢文を北地方の人が詠むのと、南の地方の人が
詠むのでは、音が違うのではないか。
意味は同じに理解されるでしょうが。
ヤを日に充てたり、イーを日に充てたりするような
事が、古代中国では皆無だったのだろうかという
単純な疑問です。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月11日(日)23時29分25秒 ]
>> 初めまして、景虎と申します。
>> 今までROMしてましたが、ちょっとだけ書きこみます。
どうも馬頭鬼です。
私も聞きかじりと、演武を見たことがあるだけなので
かなりあやふやなところがあるのですが。
>> >> 鋤でも鍬でも、種類を選べば、向かないなんてとんでもない間違いです。
>> >> それに、元々は農具工具猟具でも正規軍の武器として採用されたものは、山ほどありあす。
>> >> 西洋では、鎌やホークやトライデントが、特に鎌は、死神宜しく大鎌が使われてますし。
>> 西洋の鎌は知りませんが、日本(内地の古武道。琉球古流は知りません)で使用
>> される鎌は、農作業に使う鎌ではなく、刀鍛冶が武器として作った鎌ですね。
>> 勿論、最初は作業用の鎌を使っていたと思いますが。
日本の場合、基本的に鎖鎌他の武術が、多流派に分かれていますね。
この事を言っているのだと思いますが、いかがでしょうか?
一応古流は、総合武術なので色々含まれています。
古いものでは、戦場用ですので戦場で草を刈り小屋を
作ったり馬の世話で餌をかるのに使ったりする道具で
戦うと言うスタンスのようです
また、戦に火攻めがつき物ですので、防火タイと作るとか火攻めの燃料を作るとか、やはり命を預ける道具と言う事になりますか。
>> >> 少し形は違うでしょうが、有ったと考えています。
>> >> 戦国時代からあるものですし、孔子の弟子の中に商っているものが居ましたよね。
>> >> 中国武術や沖縄武術、柳生流の流れのなかにも使い方があります。
>> >> それだけ身近な道具なんでしょう。
>> 中国武術に鎌術ってあるんですか?
>> 日本独自の武術だと思っていたのですが。
先に書いたような事で護身術としてあるようです。
>> >> >> >> また名前は、忘れましたが、円弧を描く剣に類する武器がありますね。
>> >> >> >> 円弧の内側が刃になっているものです。
>> >> >> >> 漫画で言えば、逆刃刀ト言うところがメジャーですかね。
>> >> >> それってヨーロッパの鎌?
>> >> これも有名なところでは、鉤状の武器と曲刀があります。
>> >> 鉤浄な武器では、ペルセウスがメデゥーサの首をはねた武器がポピュラーでしょう。
>> 日本の内反り刀としては、タケミカヅチの愛刀のフツノミタマノツルギというのが
>> ありますね。
そうだったのですか?
私は、直刀だったとばかり思っていましたけど。
申し訳ありません。
その点、文献を読んだことはあると思うのですが、覚えていません。
まあ本題からは離れましたが、身の回りのもので戦ううち
有効なものが、代表的武器術と成るのでしょう。
アッと、元から武器であるものとは、別にですから念のため。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月2日(金)10時23分54秒 ]
>> 卑弥呼共立時期にはほぼ最盛期ですね。
>>
>>
>>
>>
下記サイトの用語では古墳開始=布留0、弥生終末=弥生VI=庄内、のようですね。
おにりんさんには違和感があるかもしれませんが。
山陰系はみんなこんな感じみたいです。
>> 少なくとも卑弥呼時代の3世紀前半はまだ住居址がかなりありますね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
下記サイトでは古墳初頭=布留0のころに終末を迎えたことになりますね。
妻木晩田自体に古墳があることから、古墳前期にかかるということで問題ないと思います。
この時期までこんな山上集落が残っていることが珍しくないですか?
>> 最盛期ではないですけれども、239年あたりにはまだ重要な拠点のようですが。
>>
>>
>> まさにぱっと消えていった理由はそのあたりでは?
>>
>>
>>
>>
唐古・鍵は一般的には庄内期にいったんほとんど消えて、布留期にわずかながら最後の一花があったというのが一般的では?
ですから唐古・鍵よりは消えるのは明らかに遅いですよね。
もちろん現在発掘している方には異論があるようですが。
>> 継続時期としては弥生後期丸ごと(いわゆる庄内期を含む)と言うのがこの遺跡の一般的評価のようです。
>>
>>
>>
下記サイトでは庄内期は弥生VI期にあてているとしか考えられません。
ほかの四隅突出墓の編年でもそうです。
これはテクニカルタームの問題ですね。
>>
>>
>>
>>
>>
弥生の巨大集落がほぼ連続的に古墳時代に突入していっている数少ない例と思います。
3世紀に衰退しているのは、庄内期にはいっての政治構造の変化が波及していると思います。
そこらへんは唐古・鍵よりも遅れる。
つまりある程度の独自性も有ったのでは?
>>
>>
>>
投馬国で有るかどうかはともかく、”ははき”の遺跡としてとても重要ですよね。
山陰が発生期大和政権に及ぼした影響を考えるとき無視できません。
日本人遥かな旅 第4週見ましたけど、なんかトンでもないですね。
今までな感覚が吹っ飛んじゃいました。
縄文と弥生の違いは米作りの広がりの違いと単純に考えて大違い。
どうやら6000年前から陸稲が作られてたなんて、そして水田は、
その収穫量をふやすために、工夫され作られてきたなんて
現在に知らず知らずの内に胡座をかいていたわけです。
それにしても、生活環境の刷り込みとは、恐ろしいものですね。
水田の稲を見て元々沼地の植物だと考えていたのが、
まったく違うもので、特殊だと思っていた陸稲:もち米の類が、
本来の品種だったとは。
これから、縄文土器、弥生土器が使われていた時代が、その時代である。
つまりは、あくまでも土器形式で時代を分けただけと
定義するしかないのでしょうね
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月11日(日)17時13分26秒 ]
>>
>>
>>
>>
そういうことです。久々に意見が合った。(^。^)
“がらっと”かどうかは別として、
大和説であれば南部九州を除く西日本全体を巻き込む「大乱」があって、
その結果が「卑弥呼の共立=女王国の成立」で、東海から北部九州までの国々が関係するような、何かがあったってことでしょう。
>>
>>
と言った時の“理由”は“切欠”と言いなおした方がいいでしょう。
アメリカ独立戦争はどちらが打ったかも分からない一発の銃声で起きたんじゃないし、
アヘン戦争も中国がアヘンを焼き払ったために起きたんじゃない。
日米開戦も・・・・・・・・・。
元の発言 [ Re: トンでもない ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月11日(日)01時55分55秒 ]
>> >> >> 略奪を目的にするなら、夜盗的行為のほうが効率がよいですね。夜攻めるとか。
>> >> そういうのは戦争とか合戦といいますかネ?
>> 戦争じゃないんですかね?
>> やってると言うか仕掛けるのが国と言えるなら!
上の方にレスした通り、「倭国大乱」を念頭に置いたスレッドのつもりです。
略奪や夜盗の類で「女王国」というような連合体制が出来ましょうか。
>> 道をはじめた頃、冗談ですが強がって女性のなぎなたと構え有ったことがあるんですが。
>> 怖かった、打ち合わず冗談で済ましましたが、恥をかく寸前出したよ。
なるほど、そう言えば高校のとき見ました。
剣道部員が脛をしたたか撃たれてましたっけ。(^。^)
卑弥呼の宮殿を守っていた守備には、矛を使っていたんですね。
矛や戈が多く出土するのは北部九州ですネ。
>> 大和朝廷で、隼人の兵が使われていましたねそん案おにつながるのかな?
耳たこ(ってのも変か)でしょうが。
隼人の元は熊襲、熊襲の元は球磨+曽於、球磨の元は狗奴、
大和朝廷は女王国と敵対していた「狗奴国」と通じていたんでしょう。
神武の出身地は日向だから、狗奴国から大和に入ったと言った方が正しいか。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月12日(月)00時59分45秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
と言う事で、漢字表記は正しいとして、ホンとに近い発音だったか?
クックドゥドゥルドゥ・・・・・コケコッコー
バウバウ・・・・・・・・・・・ワンワン
この違いどうなるんでしょう。
聞いたヒトと言ったヒトが違うとどうなると言う典型例に気づいちゃいました。
近いかもしれませんけど、はじめて聞く外国の固有名詞や言葉は、
結局、擬音に近いのではないのでしょうか。
と言う事は、聞いたその人間の育った環境に、よりかなり違ってくるのでは?
標準語として記入するにしても、かなり違いが出てk縷縷彼の製は否定できないでしょうね。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月11日(日)01時13分44秒 ]
>> >> >> >> 銅矛、銅戈、銅剣、鏃も骨に刺さった状態で出土しています。
>> >> >> やはり本当に鎌を使ったと考えます。
有りましたよ。(^。^)
青谷上寺地遺跡(11月6日)−鳥取県−
青谷町にある青谷上寺地遺跡から出土した弥生人骨に残っていた殺傷痕を分析していた井上貴央・鳥取大学教授は、
弥生人の傷に鎌状の武器でついたらしい特殊な形のものがあることを明らかにした。同遺跡からは少なくとも92体分の人骨が出土しており、10体分ほどの人骨に武器による傷が見つかっている。
同教授は肋骨に残るV字状の傷に注目し、背骨も調べたところ、1体の背骨の側面からその下にあった背骨の上面に達した傷を見つけ、
剣などでなく、先の曲がった薄刃の鎌のような武器を振り下ろしてできる傷であることが分かったという。
>> >> >> 武器の少ない時代、当然農具は重要な武器でも有るでしょう。
当然そうだろうとは思います。
>> >> >> 銅矛、銅戈、銅剣、これは、戦場の消耗品ですよね。
>> >> >> 持って居るのは、特別階級でしょう。
消耗品とは思いません。そういう意味では農具だって消耗品ってことになりましょう。
北部九州では墓に副葬出来るくらい沢山あったし。(^_^;)
上述の「先の曲がった薄刃の鎌のような武器」は勿論、鎌も出土してない。
考古学的には物が出ないことには、推論の域を出ません。
あったとして、銅矛、銅戈、銅剣を持って攻めてきた相手とまともな「イクサ」になりましょうか。
元の発言 [ Re: トンでもない ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月12日(月)21時35分12秒 ]
>> >> >> >> 略奪を目的にするなら、夜盗的行為のほうが効率がよいですね。夜攻めるとか。
>> >> >> そういうのは戦争とか合戦といいますかネ?
>> >> 戦争じゃないんですかね?
>> >> やってると言うか仕掛けるのが国と言えるなら!
>> 上の方にレスした通り、「倭国大乱」を念頭に置いたスレッドのつもりです。
>> 略奪や夜盗の類で「女王国」というような連合体制が出来ましょうか。
これができないと決め付ける事こそできないのが、面白いとこでして。
遊牧民にとって、戦争を仕掛け略奪すると言うのは、当然の事のようです。
と言うより略奪のために戦争を仕掛けると言うことが、当たり前だったようです。
別のところにも書いたのですが、略奪のための戦争と言うのは、彼らに取り生産の手段であったと言えるらしいんです。
そしてその親玉と言えるのが、ジンギスカンなわけです。
騎馬民族だからそのリーダーは、すごい権力を持っているわけですが、それでも、各部族の連合と言う面が、あります。
他にも、砂漠の通商都市国家においては、その都市に立ち寄らず別の道をとおる商人に対しては強盗と化すと言うのも珍しくないでしょ。
瀬戸内な水軍も似たようなことをやっている。
この様なのが連合して王国を作っている例なんかしこたまあるのが歴史です。
>> >> 道をはじめた頃、冗談ですが強がって女性のなぎなたと構え有ったことがあるんですが。
>> >> 怖かった、打ち合わず冗談で済ましましたが、恥をかく寸前出したよ。
>> なるほど、そう言えば高校のとき見ました。
>> 剣道部員が脛をしたたか撃たれてましたっけ。(^。^)
江戸時代でも、赤穂浪士の討ち入りに多く槍が使われている例でも明らかでしょうね。狭い屋敷内で使うのにもかかわらずにです。
>> 卑弥呼の宮殿を守っていた守備には、矛を使っていたんですね。
>> 矛や戈が多く出土するのは北部九州ですネ。
なぜ、その地方に多く出土するのかは、なぞでしょうけど。
まあ、戟であった可能性も有りますし、ハハ・・(茶々)
まじめな話、手戟というのが、奈良時代にも使われているようですね。古代の戟とは、形は、違うようですが。
唐以前の時代あたりに戟は、消えてしまい。本来の形がわからなくなっているようですけど。
元の発言 [ Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月12日(月)20時36分30秒 ]
>> 日本人遥かな旅 第4週見ましたけど、なんかトンでもないですね。
>> 今までな感覚が吹っ飛んじゃいました。
>> 縄文と弥生の違いは米作りの広がりの違いと単純に考えて大違い。
>> どうやら6000年前から陸稲が作られてたなんて、そして水田は、
>> その収穫量をふやすために、工夫され作られてきたなんて
>> 現在に知らず知らずの内に胡座をかいていたわけです。
>> それにしても、生活環境の刷り込みとは、恐ろしいものですね。
>> 水田の稲を見て元々沼地の植物だと考えていたのが、
>> まったく違うもので、特殊だと思っていた陸稲:もち米の類が、
>> 本来の品種だったとは。
>> これから、縄文土器、弥生土器が使われていた時代が、その時代である。
>> つまりは、あくまでも土器形式で時代を分けただけと
>> 定義するしかないのでしょうね
やっぱり、勘違いする人がいましたネ。失礼m(__)m
韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは間に合わなかった。
陸稲は米とは言っても畑作作物の中の一つとして混栽されていたということは当然だし、
NHKが力を入れているほど目新しいことじゃないです。
温帯ジャポニカのルーツについてはあまり詳しく言ってなかったし。
縄文文化と弥生文化の違いは、畑作と灌漑水田による社会体制の違いです。
放送に出ていた菜畑を始め、北部九州の水田稲作受容期の集落は灌漑水路だけでなく、土器(無紋土器)をはじめ住居(松菊里型+環濠)から墓(支石墓・甕棺・刳り貫き木棺)まで、多くの半島系遺物を伴っています。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月12日(月)22時03分15秒 ]
>> >> >> >> やはり本当に鎌を使ったと考えます。
>> 有りましたよ。(^。^)
>> 青谷上寺地遺跡(11月6日)−鳥取県−
>> 青谷町にある青谷上寺地遺跡から出土した弥生人骨に残っていた殺傷痕を分析していた井上貴央・鳥取大学教授は、
>> 弥生人の傷に鎌状の武器でついたらしい特殊な形のものがあることを明らかにした。同遺跡からは少なくとも92体分の人骨が出土しており、10体分ほどの人骨に武器による傷が見つかっている。
>> 同教授は肋骨に残るV字状の傷に注目し、背骨も調べたところ、1体の背骨の側面からその下にあった背骨の上面に達した傷を見つけ、
>> 剣などでなく、先の曲がった薄刃の鎌のような武器を振り下ろしてできる傷であることが分かったという。
>> >> >> >> 武器の少ない時代、当然農具は重要な武器でも有るでしょう。
>> 当然そうだろうとは思います。
>> >> >> >> 銅矛、銅戈、銅剣、これは、戦場の消耗品ですよね。
>> >> >> >> 持って居るのは、特別階級でしょう。
>> 消耗品とは思いません。そういう意味では農具だって消耗品ってことになりましょう。
正確に定義すると、剣などの武器、軍事用品はあくまで消耗品です。
鎌などの道具は、正確に適宜すると生産財または、耐久消費財と言う事に成ります(笑い)。
>> 北部九州では墓に副葬出来るくらい沢山あったし。(^_^;)
>> 上述の「先の曲がった薄刃の鎌のような武器」は勿論、鎌も出土してない。
>> 考古学的には物が出ないことには、推論の域を出ません。
その点は、同意します。
>> あったとして、銅矛、銅戈、銅剣を持って攻めてきた相手とまともな「イクサ」になりましょうか。
私の見た演武では、対剣、対棍、対槍があったと記憶しています。
両手に鎌をもつ場合の二丁鎌と両手で一本の釜を持つ場合の他に、
片手に別の何かを持つ場合の三つがありましたね。
元の発言 [ Re: Title妻木晩田 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月1日(木)20時56分49秒 ]
日本の歴史地名体系32によると
**********************************************************************************
妻木村
富岡村の北にあり、北は稲光村、南を妻木川が西流する。地名は「つまき」とも読んだ
とされ、その由来について、「伯耆民諺記」によると当地の老夫婦が神社に祈願し女子に
恵まれ、その女子が成人したのち都へ上って天皇の女御となった。以後当地の夫役は免ぜ
られることとなり、天皇から賜った歌にちなみ妻来(つまき)里と改められたという。
「伯耆民談記」にも類似の記述がある。正保国絵図には六木村とみえる。
中略
「大山寺縁起」に前出の天皇の后となった女性が建立したとみえる天台宗簾山朝妻(あさ
つま)寺があり、本尊千手観音は玉簾(ぎょくれん)の妻(つま)観音として信仰を集めて
いたと伝え
後略
**********************************************************************************
ちょっと遠いですが、大山北東(東伯)の日本海岸には妻波「つまなみ」の地名もあります。
ふるい地名があって、それに漢字表記が古く確立し、その別読みが地名として広まった
ケースは他にもいくつかあり、妻木が本来「つまき」であった可能性は捨てがたいです。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月13日(火)09時16分04秒 ]
>> と言う事で、漢字表記は正しいとして、ホンとに近い発音だったか?
>> クックドゥドゥルドゥ・・・・・コケコッコー
>> バウバウ・・・・・・・・・・・ワンワン
>> この違いどうなるんでしょう。
>>
>> 近いかもしれませんけど、はじめて聞く外国の固有名詞や言葉は、
>> 結局、擬音に近いのではないのでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
中国の「k」−>「f(h)」の法則が働けば「呼」が「ko」かもしれない。
>>
>>
>>
n と u の変化とか。
>>
>>
>>
外人に日本語を発音させてもうまく言えなくてお互いに諦めて、日本人のほうは「しょうがないなあ。外人の言う事だから何とか理解してやろう。」と思い、外人の方は「コミュニケーションがうまくいった。よかった。」なんて良くある事です。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月13日(火)10時14分21秒 ]
>> 中国の「k」−>「f(h)」の法則が働けば「呼」が「ko」かもしれない。
>>
どっちがオリジナルか判りませんが日本で「k」の発音は中国、韓国では「f(h)」と発音される事が多いでしょ。
>> n と u の変化とか。
>>
>>
>>
すみません、正確でなくって。 「-ng」の事です。
>> 外人に日本語を発音させてもうまく言えなくてお互いに諦めて、日本人のほうは「しょうがないなあ。外人の言う事だから何とか理解してやろう。」と思い、外人の方は「コミュニケーションがうまくいった。よかった。」なんて良くある事です。
>>
>>
昔、レーガン大統領をしばらくの間、リーガンと言っていました。
数ヶ月で修正されましたが。
アメリカ大統領でなく、どこかの小国だったら永久に直らなかったかも知れません。
元の発言 [ Re: トンでもない ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月12日(月)22時18分55秒 ]
>> >> >> 道をはじめた頃、冗談ですが強がって女性のなぎなたと構え有ったことがあるんですが。
>> >> >> 怖かった、打ち合わず冗談で済ましましたが、恥をかく寸前出したよ。
>> >> なるほど、そう言えば高校のとき見ました。
>> >> 剣道部員が脛をしたたか撃たれてましたっけ。(^。^)
>> 江戸時代でも、赤穂浪士の討ち入りに多く槍が使われている例でも明らかでしょうね。狭い屋敷内で使うのにもかかわらずにです。
以前、雑誌で読んだのですが、剣道対薙刀の異種試合をやっている人によると、剣
道三段と薙刀初段では薙刀が勝つ場合が多いそうです。それでも剣道も七段、八
段といった実質的な最高段位の人達は、薙刀と互角に戦うらしいですが。
ちなみに赤穂浪士の場合は、剣が強い人が少なかったというのが大きいでしょう
ね。新撰組などは刀で戦ってますから。
>> >> 卑弥呼の宮殿を守っていた守備には、矛を使っていたんですね。
>> >> 矛や戈が多く出土するのは北部九州ですネ。
>> なぜ、その地方に多く出土するのかは、なぞでしょうけど。
>> まあ、戟であった可能性も有りますし、ハハ・・(茶々)
>> まじめな話、手戟というのが、奈良時代にも使われているようですね。古代の戟とは、形は、違うようですが。
正倉院に鈎鎌槍のような矛がありますね。戟とも言われているらしいですが、今の
中国では戟とは呼ばないとか。
>> 唐以前の時代あたりに戟は、消えてしまい。本来の形がわからなくなっているようですけど。
戟は矛と戈を組み合わせたような武器ですね。この形が本来の形だと思っていたの
ですが、違うのですか?
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月12日(月)22時46分11秒 ]
>> >> あったとして、銅矛、銅戈、銅剣を持って攻めてきた相手とまともな「イクサ」になりましょうか。
>> 私の見た演武では、対剣、対棍、対槍があったと記憶しています。
>> 両手に鎌をもつ場合の二丁鎌と両手で一本の釜を持つ場合の他に、
>> 片手に別の何かを持つ場合の三つがありましたね。
武術のプロ達の間で、何代もかけて洗練された後世の流儀武術としての鎌術を、
そのまま弥生時代の戦闘に当てはめる事はできないのではないですか?
まあ、必ずしも弥生時代の戦闘と、後世の武術が関係ないという物でもないとは思
いますが。
例えば、ある武術史研究家にして武術家でもある人が、木刀で片刃内反りのフツ
ノミタマノ剣を作って、技法の再現実験したという面白い話があります。
それによると、神道流の鳥居の構えは後世の日本刀よりやりやすかったそうです。
天真正伝香取神道流は、国譲り神話の武神を祭る、鹿島、香取神宮に伝わる武
術を、室町時代の飯篠長威斎が工夫を重ねて流儀として纏めたものです。
神話がどこまで史実を反映しているのか分かりませんが、香取の武術は片刃内反
り刀が使用されていた時代までは遡れるかも知れません。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭機 ] 日付 [ 11月12日(月)08時55分24秒 ]
>> 一応古流は、総合武術なので色々含まれています。
>> 古いものでは、戦場用ですので戦場で草を刈り小屋を
>> 作ったり馬の世話で餌をかるのに使ったりする道具で
>> 戦うと言うスタンスのようです
>> また、戦に火攻めがつき物ですので、防火タイと作るとか火攻めの燃料を作るとか、やはり命を預ける道具と言う事になりますか。
そう言えば、薙鎌という薙刀のように長い柄の先に小さな鎌が付いている武器が
ありますね。これは、普通の戦いでも使いますが、水軍で使用される事が多かった
ようです。戦闘以外では海草を取ったり、戦闘では敵を引っ掛けて海に落としたりし
たとか。古代中国の戦車戦で使用された戟のような物だったのでしょう。
>> >> 日本の内反り刀としては、タケミカヅチの愛刀のフツノミタマノツルギというのが
>> >> ありますね。
>> そうだったのですか?
>> 私は、直刀だったとばかり思っていましたけど。
>> 申し訳ありません。
>> その点、文献を読んだことはあると思うのですが、覚えていません。
何でも、明治時代に文献と口伝承に基づいて石上神宮を発掘したら片刃内反りの
刀が出てきたそうです。保存処置をして近代的な神庫に保管したとか。
鹿島神宮の直刀のフツノミタマ剣は二代目ですね。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月13日(火)15時49分46秒 ]
>> >> >> 中国の「k」−>「f(h)」の法則が働けば「呼」が「ko」かもしれない。
>> >> どこにそんなのがあるんですか?
>> どっちがオリジナルか判りませんが日本で「k」の発音は中国、韓国では「f(h)」と発音される事が多いでしょ。
>> >> >> n と u の変化とか。
>> >> 唐代長安の方言で、韻尾の -ng が、u や i になる
>> >> という可能性が示唆されていますが、n が u になる
>> >> 例ってなんですか?
>> すみません、正確でなくって。 「-ng」の事です。
>> >> >> 外人に日本語を発音させてもうまく言えなくてお互いに諦めて、日本人のほうは「しょうがないなあ。外人の言う事だから何とか理解してやろう。」と思い、外人の方は「コミュニケーションがうまくいった。よかった。」なんて良くある事です。
>> >> 外交文書ですから、飛行機搭乗のためのチケットの綴り
>> >> とは違うと思いますが。
>> 昔、レーガン大統領をしばらくの間、リーガンと言っていました。
>> 数ヶ月で修正されましたが。
>> アメリカ大統領でなく、どこかの小国だったら永久に直らなかったかも知れません。
単純から複雑を表現するため色々な表現が出てくるようになる。
であるけど、発音が複雑であるからかえって迷ってしまい
逆に色々な、表現が出てきてしまう可能性があると言う事でしょうか。
東アジアの古代文化を考える会12月の講演会のご案内です。
是非いらしてください。
鉄から見たヤマト政権の成立
――初期ヤマト政権成立探求シリーズーー
日時12月8日(土)午後1時半ーー5時
(午後1時開場)
会場:機械振興会館6−66号室(港区芝公
園3−5−8.
地下鉄日比谷線神谷町、三田線御成門より徒
歩各8分。(東京タワーそば)
講師:愛媛大学 村上恭通助教授
資料代:会員1700円、非会員2000円
学生1500円(要学生証提示)
講師のことば
洋の東西を問わず、国家と鉄の関係はつと
に論じられてきた。わが国においても、古墳
時代の開始を国家の成立と捉える立場から、
大陸に産する鉄の流通がときの権力(ヤマト
政権)によって掌握されたという考え方が提
示されている。この考え方の前提としては弥
生終末期に近畿地方が完全なる鉄器時代を迎
え、鉄器の生産・消費を円滑に行いうる段階
にあったことを前提としている。しかしなが
ら、遺跡から出土する鉄器やその生産址の研
究成果は、古墳出現期にあってヤマト政権が
鉄の流通権を掌握したという仮説を証明する
ことはない。
列島各地の鉄に関する考古資料を見ながら、
前方後円墳時代社会の成立と鉄との関係を問
い、「政権」と呼ばれる権力構造の成立基盤
について考えたいと思う。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月12日(月)21時53分58秒 ]
>> そういうことです。久々に意見が合った。(^。^)
>>
>>
>>
>>
>>
近畿から玄界灘まで「顔が嫌い」で騒乱には(^_^;)
>> 大和説であれば南部九州を除く西日本全体を巻き込む「大乱」があって、
>> その結果が「卑弥呼の共立=女王国の成立」で、東海から北部九州までの国々が関係するような、何かがあったってことでしょう。
>>
>>
>> と言った時の“理由”は“切欠”と言いなおした方がいいでしょう。
>>
>>
>>
>>
物の始まりと、原因とは違うでしょう。
>> アヘン戦争も中国がアヘンを焼き払ったために起きたんじゃない。
>>
>>
>>
>>
>>
>> 日米開戦も・・・・・・・・・。
>>
>>
>>
結局は切欠以外に根本原因があるってことを仰ってる。
以下同様。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月2日(金)11時34分25秒 ]
>> >> >> 卑弥呼共立時期にはほぼ最盛期ですね。
会社でも売上の伸びが止まると衰退期。減りだしたらもはや危機的状況。
二世紀後半は妻木晩田の人口は減少していますから衰退期ですね。
何らかの事情で立ち行かなくなっていた。
>> >> このあたりの年代観は難しいところなので、妻木晩田
>> >> 遺跡の終末期が、3世紀末なのか、3世紀中葉なのか、
>> >> っていうのは、まだまだだなんともいえないですね。
>> >> 古墳時代のはじまりが2世紀前半まで遡る勢いなので。
>> 下記サイトの用語では古墳開始=布留0、弥生終末=弥生VI=庄内、のようですね。
>> おにりんさんには違和感があるかもしれませんが。
>> 山陰系はみんなこんな感じみたいです。
>> >> >> 少なくとも卑弥呼時代の3世紀前半はまだ住居址がかなりありますね。
>> >> 卑弥呼時代は、2世紀末から3世紀初頭を中心として、
>> >> 3世紀中葉まで、とすると、早めの年代をとると、
>> >> 卑弥呼時代の前半が、庄内期、後半が古墳時代初頭とい
>> >> うことになって、妻木晩田遺跡は、基本的に卑弥呼時代
>> >> 前半には、かなり大きく、その後、卑弥呼時代のうちに
>> >> 終末をむかえたことになります。
>> 下記サイトでは古墳初頭=布留0のころに終末を迎えたことになりますね。
>> 妻木晩田自体に古墳があることから、古墳前期にかかるということで問題ないと思います。
>> この時期までこんな山上集落が残っていることが珍しくないですか?
>> >> >> 最盛期ではないですけれども、239年あたりにはまだ重要な拠点のようですが。
>> >> 微妙なところですけど、このあたりは誤差20年とみて
>> >> よいので。
>> >> >> まさにぱっと消えていった理由はそのあたりでは?
>> >> この遺跡の消長を、唐古・鍵遺跡などと同じパターンと
>> >> みるべきか、もうすこし遅い時代まであったとみるべき
>> >> か、です。もちろん、唐古・鍵も庄内期につながります
>> >> けれど。
>> 唐古・鍵は一般的には庄内期にいったんほとんど消えて、布留期にわずかながら最後の一花があったというのが一般的では?
>> ですから唐古・鍵よりは消えるのは明らかに遅いですよね。
>> もちろん現在発掘している方には異論があるようですが。
>> >> >> 継続時期としては弥生後期丸ごと(いわゆる庄内期を含む)と言うのがこの遺跡の一般的評価のようです。
>> >> いや、だから、このあたりが微妙です。最近は、庄内期
>> >> を古墳時代に含めるという方向でしょ。
>> >> だから、人により、言葉の使い方が違うから。
>> 下記サイトでは庄内期は弥生VI期にあてているとしか考えられません。
>> ほかの四隅突出墓の編年でもそうです。
>> これはテクニカルタームの問題ですね。
>> >> ようするに、妻木晩田を、標準的な大規模集落パターンと
>> >> 同じように、弥生後期に栄えて、庄内期に急速にしぼみ、
>> >> そこから古墳時代に入るまでしばらく人が住まないという
>> >> ようなパターンなのか、それとも、庄内期から古墳時代
>> >> 初頭まで、存続したのか、というところです。
>> 弥生の巨大集落がほぼ連続的に古墳時代に突入していっている数少ない例と思います。
>> 3世紀に衰退しているのは、庄内期にはいっての政治構造の変化が波及していると思います。
>> そこらへんは唐古・鍵よりも遅れる。
>> つまりある程度の独自性も有ったのでは?
単に畿内より古墳時代の到来が遅れただけでしょうね。
畿内や北陸、東海、四国で始まった古墳時代が半世紀ほど遅れた可能性があります。
なぜ古墳時代の到来直前に巨大弥生遺跡が衰退したかを考えた時に真実が見えてきそうな気がします。
これまで考古学者はこの事実をどのように説明しているのでしょう。
>> >> 出雲もふくめて、山陰の巨大集落として、投馬国が、
>> >> 山陰にあったとしたら、名称はさておいて、妻木晩田
>> >> 遺跡が、かなり重要な候補ではあると思います。
>> 投馬国で有るかどうかはともかく、”ははき”の遺跡としてとても重要ですよね。
>> 山陰が発生期大和政権に及ぼした影響を考えるとき無視できません。
投馬国に比定するには周囲も含めて5万戸の人口を支える拡がりが持てたかを考えなければなりませんね。
当時の地形も考えて。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月11日(日)01時58分34秒 ]
>> 貝塚?高地ですよ、浅学にしてそのような遺跡を知りません。
>>
>>
>>
貝塚の有った高地に集落が作られたんじゃないんですか?
>>
>>
へっ!?九州に「ヤマト」が無いって?
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月12日(月)22時46分11秒 ]
>> 正確に定義すると、剣などの武器、軍事用品はあくまで消耗品です。
>> 鎌などの道具は、正確に適宜すると生産財または、耐久消費財と言う事に成ります(笑い)。
中広形以降のは祭器ですから消費財じゃないっすしネ。
>> >> 北部九州では墓に副葬出来るくらい沢山あったし。(^_^;)
>> >> 上述の「先の曲がった薄刃の鎌のような武器」は勿論、鎌も出土してない。
>> >> 考古学的には物が出ないことには、推論の域を出ません。
>> その点は、同意します。
ってことで、近畿で矛か戈が出土してますか?
元の発言 [ Re: トンでもない ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月13日(火)17時39分18秒 ]
>> >> 江戸時代でも、赤穂浪士の討ち入りに多く槍が使われている例でも明らかでしょうね。狭い屋敷内で使うのにもかかわらずにです。
>> 以前、雑誌で読んだのですが、剣道対薙刀の異種試合をやっている人によると、剣
>> 道三段と薙刀初段では薙刀が勝つ場合が多いそうです。それでも剣道も七段、八
>> 段といった実質的な最高段位の人達は、薙刀と互角に戦うらしいですが。
>> ちなみに赤穂浪士の場合は、剣が強い人が少なかったというのが大きいでしょう
>> ね。新撰組などは刀で戦ってますから。
>> >> >> 卑弥呼の宮殿を守っていた守備には、矛を使っていたんですね。
>> >> >> 矛や戈が多く出土するのは北部九州ですネ。
>> >> なぜ、その地方に多く出土するのかは、なぞでしょうけど。
>> >> まあ、戟であった可能性も有りますし、ハハ・・(茶々)
>> >> まじめな話、手戟というのが、奈良時代にも使われているようですね。古代の戟とは、形は、違うようですが。
>> 正倉院に鈎鎌槍のような矛がありますね。戟とも言われているらしいですが、今の
>> 中国では戟とは呼ばないとか。
戟刀と呼ばれるたぐいのものらしいですね、聞いた範囲ですけど。
>> >> 唐以前の時代あたりに戟は、消えてしまい。本来の形がわからなくなっているようですけど。
>> 戟は矛と戈を組み合わせたような武器ですね。この形が本来の形だと思っていたの
>> ですが、違うのですか?
唐代に、戟といわれるのは、ホウテン戟(字を忘れました)、青竜戟と呼ばれるもので
まったく違ってるんですね。使いかた以外。
形はホウテン戟は、矛の両側に三日月状の刃が両側に着いているもの。
丁度こんな観じかな。 ↑
]I[
青竜戟とは三日月か片方しかついてないもの。
後三叉戟と呼ばれる、仏像などの持っているようなトライデントに近いもの。
こんな風になっており、正確な戟の形がわかったのは、近代になってある古代墓唐発掘されたかららしい。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月13日(火)18時15分39秒 ]
>> >> >> あったとして、銅矛、銅戈、銅剣を持って攻めてきた相手とまともな「イクサ」になりましょうか。
>> >> 私の見た演武では、対剣、対棍、対槍があったと記憶しています。
>> >> 両手に鎌をもつ場合の二丁鎌と両手で一本の釜を持つ場合の他に、
>> >> 片手に別の何かを持つ場合の三つがありましたね。
>> 武術のプロ達の間で、何代もかけて洗練された後世の流儀武術としての鎌術を、
>> そのまま弥生時代の戦闘に当てはめる事はできないのではないですか?
ひとつ言える事は、戦いのとき必ず使われると思うものがある棒、棍棒、棍の類と斧です。この場合、槍と矛を分けていますから入れる事ができない(笑い)。
で争いがある以上、素朴な護身術が、手元にあるもので戦うと言う
コンセプトでできてもおかしくないと思いますけど?
>> まあ、必ずしも弥生時代の戦闘と、後世の武術が関係ないという物でもないとは思
>> いますが。
>> 例えば、ある武術史研究家にして武術家でもある人が、木刀で片刃内反りのフツ
>> ノミタマノ剣を作って、技法の再現実験したという面白い話があります。
>> それによると、神道流の鳥居の構えは後世の日本刀よりやりやすかったそうです。
>> 天真正伝香取神道流は、国譲り神話の武神を祭る、鹿島、香取神宮に伝わる武
>> 術を、室町時代の飯篠長威斎が工夫を重ねて流儀として纏めたものです。
>> 神話がどこまで史実を反映しているのか分かりませんが、香取の武術は片刃内反
>> り刀が使用されていた時代までは遡れるかも知れません。
面白いですね。
そう言えば、何かのホンで戦国時代まで、
左手にたてを持ち、右手に剣または、
その他の武器を持って戦うという武術が残っていた
と言う記録があるようですね。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月13日(火)18時15分39秒 ]
失礼、入力ミスしました
>> >> >> あったとして、銅矛、銅戈、銅剣を持って攻めてきた相手とまともな「イクサ」になりましょうか。
>> >> 私の見た演武では、対剣、対棍、対槍があったと記憶しています。
>> >> 両手に鎌をもつ場合の二丁鎌と両手で一本の釜を持つ場合の他に、
>> >> 片手に別の何かを持つ場合の三つがありましたね。
>> 武術のプロ達の間で、何代もかけて洗練された後世の流儀武術としての鎌術を、
>> そのまま弥生時代の戦闘に当てはめる事はできないのではないですか?
ひとつ言える事は、戦いのとき必ず使われると思うものがある。 棒、棍棒、棍の類と斧です。
この場合、槍と矛を分けていますから入れる事ができない(笑い)。
で争いがある以上、素朴な護身術が、手元にあるもので戦うと言う
コンセプトでできてもおかしくないと思いますけど?
>> まあ、必ずしも弥生時代の戦闘と、後世の武術が関係ないという物でもないとは思
>> いますが。
>> 例えば、ある武術史研究家にして武術家でもある人が、木刀で片刃内反りのフツ
>> ノミタマノ剣を作って、技法の再現実験したという面白い話があります。
>> それによると、神道流の鳥居の構えは後世の日本刀よりやりやすかったそうです。
>> 天真正伝香取神道流は、国譲り神話の武神を祭る、鹿島、香取神宮に伝わる武
>> 術を、室町時代の飯篠長威斎が工夫を重ねて流儀として纏めたものです。
>> 神話がどこまで史実を反映しているのか分かりませんが、香取の武術は片刃内反
>> り刀が使用されていた時代までは遡れるかも知れません。
面白いですね。
そう言えば、何かのホンで戦国時代まで、
左手にたてを持ち、右手に剣または、
その他の武器を持って戦うという武術が残っていた
と言う記録があるようですね。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月12日(月)22時36分11秒 ]
>> >> 縄文と弥生の違いは米作りの広がりの違いと単純に考えて大違い。
>> >> どうやら6000年前から陸稲が作られてたなんて、そして水田は、
>> >> その収穫量をふやすために、工夫され作られてきたなんて
>> >> 現在に知らず知らずの内に胡座をかいていたわけです。
>> >> それにしても、生活環境の刷り込みとは、恐ろしいものですね。
>> >> 水田の稲を見て元々沼地の植物だと考えていたのが、
>> >> まったく違うもので、特殊だと思っていた陸稲:もち米の類が、
>> >> 本来の品種だったとは。
>> >> これから、縄文土器、弥生土器が使われていた時代が、その時代である。
>> >> つまりは、あくまでも土器形式で時代を分けただけと
>> >> 定義するしかないのでしょうね
>> やっぱり、勘違いする人がいましたネ。失礼m(__)m
>> 韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは間に合わなかった。
>> 陸稲は米とは言っても畑作作物の中の一つとして混栽されていたということは当然だし、
畑作物ですけど、米なので、弥生時代の項目には学校の教科書には、アリアンセンでしたが、
当然とは、何時頃からわかってのでしょうか
皮肉屋、揚げ足とりではなく、まじめにお尋ねします。
>> NHKが力を入れているほど目新しいことじゃないです。
>> 温帯ジャポニカのルーツについてはあまり詳しく言ってなかったし。
>> 縄文文化と弥生文化の違いは、畑作と灌漑水田による社会体制の違いです。
灌漑畑作と灌漑水田と焼畑との社会体制の違いとは?
エジプト、中東、インド
(麦による灌漑畑作と言えるでしょう)中国黄河流域も、と長江流域、弥生の日本(灌漑水田)、
焼畑による社会構造とその文明、これは、中米マヤ、アステカ、縄文なんかにらうと思いますけど。
>> 放送に出ていた菜畑を始め、北部九州の水田稲作受容期の集落は灌漑水路だけでなく、土器(無紋土器)をはじめ住居(松菊里型+環濠)から墓(支石墓・甕棺・刳り貫き木棺)まで、多くの半島系遺物を伴っています。
大陸文化体制と言う事でしょうが、渡ってきたヒトがふえて流れ込んだっていうのとどれだけ違うのかいめー字で着ません。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月14日(水)00時28分02秒 ]
>> 昔、レーガン大統領をしばらくの間、リーガンと言っていました。
>> 数ヶ月で修正されましたが。
>> アメリカ大統領でなく、どこかの小国だったら永久に直らなかったかも知れません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なるほど日本の都合で表記が変えられたんですね。
発音云々はともかく中国側の都合で字が選ばれた可能性は否定できませんね。
ピッタリ一致しなくても大体判ればいいので。
高句麗を下句麗と書いたり、匈奴が恭奴になったり。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月13日(火)21時54分17秒 ]
>> >> >> >> あったとして、銅矛、銅戈、銅剣を持って攻めてきた相手とまともな「イクサ」になりましょうか。
>> >> >> 私の見た演武では、対剣、対棍、対槍があったと記憶しています。
>> >> >> 両手に鎌をもつ場合の二丁鎌と両手で一本の釜を持つ場合の他に、
>> >> >> 片手に別の何かを持つ場合の三つがありましたね。
>> >> 武術のプロ達の間で、何代もかけて洗練された後世の流儀武術としての鎌術を、
>> >> そのまま弥生時代の戦闘に当てはめる事はできないのではないですか?
>> ひとつ言える事は、戦いのとき必ず使われると思うものがある。 棒、棍棒、棍の類と斧です。
>> この場合、槍と矛を分けていますから入れる事ができない(笑い)。
棒、棍棒、棍の類と斧は、必ず戦いで使われるというものではないのでは?
>> で争いがある以上、素朴な護身術が、手元にあるもので戦うと言う
>> コンセプトでできてもおかしくないと思いますけど?
日常で使用する道具を、武器として使う事はあったと思います。
ただ、後世の流儀武術ほど進化した技法があった訳ではないでしょう。
それと、奇襲された場合とか、武器が足りない場合以外では、矛や剣や戈を使っ
て戦ったのではないでしょうか?
>> そう言えば、何かのホンで戦国時代まで、
>> 左手にたてを持ち、右手に剣または、
>> その他の武器を持って戦うという武術が残っていた
>> と言う記録があるようですね。
それは、知りませんでした。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月2日(金)19時22分32秒 ]
>> >> >> >> 卑弥呼共立時期にはほぼ最盛期ですね。
>> 会社でも売上の伸びが止まると衰退期。減りだしたらもはや危機的状況。
>> 二世紀後半は妻木晩田の人口は減少していますから衰退期ですね。
>> 何らかの事情で立ち行かなくなっていた。
弥生終末期あたりから集落の形態が変わり始めたという考えもあり、一概に言えないのでは?
相対的には同時期の目立つ集落でしょう。
もしたちゆかなくなっていたと言うなら、日本中立ち行かなくなっていた。
>> >> 弥生の巨大集落がほぼ連続的に古墳時代に突入していっている数少ない例と思います。
>> >> 3世紀に衰退しているのは、庄内期にはいっての政治構造の変化が波及していると思います。
>> >> そこらへんは唐古・鍵よりも遅れる。
>> >> つまりある程度の独自性も有ったのでは?
>> 単に畿内より古墳時代の到来が遅れただけでしょうね。
>> 畿内や北陸、東海、四国で始まった古墳時代が半世紀ほど遅れた可能性があります。
半世紀遅れたなどという話は知りませんでした。
紀年鏡の神原神社古墳などもありますが。
>> なぜ古墳時代の到来直前に巨大弥生遺跡が衰退したかを考えた時に真実が見えてきそうな気がします。
>> これまで考古学者はこの事実をどのように説明しているのでしょう。
そこらへん集中的に議論されてますね。
環濠集落から散村+古墳+豪族居館の形態へ。
>> >> 投馬国で有るかどうかはともかく、”ははき”の遺跡としてとても重要ですよね。
>> >> 山陰が発生期大和政権に及ぼした影響を考えるとき無視できません。
>> 投馬国に比定するには周囲も含めて5万戸の人口を支える拡がりが持てたかを考えなければなりませんね。
>> 当時の地形も考えて。
通常の年代観で三世紀末、山陰には多くの四隅突出型墳丘墓が生まれています。
個々にみても弥生墳丘墓のなかで、同時期最大級のものが多数出ています。
この地域、つまり石見から出雲、伯耆、因幡をまとめれば、かなりの勢力でしょう。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月13日(火)22時13分35秒 ]
>> 畑作物ですけど、米なので、弥生時代の項目には学校の教科書には、アリアンセンでしたが、
>> 当然とは、何時頃からわかってのでしょうか
>> 皮肉屋、揚げ足とりではなく、まじめにお尋ねします。
縄文遺跡からの炭化米、プラントオパール、籾圧痕などは相当前(籾圧痕は1932年・川上勇輝)からあったようです。
ただ、米があるからと言っても栽培していたと言う考古学的証拠は(水田じゃないから当然)ないと言うことで断定されていなかったようです。
最近になってDNAを初めとして自然科学的分析が(考古学で)利用、理解されるようになって、認めてもいいじゃないかと言う雰囲気になった?
私が、はっきり「縄文時代に稲作はあった」というのを目にした最初は広瀬和雄氏の「縄文から弥生への新歴史像」(1997・角川書店)です。
>> 灌漑畑作と灌漑水田と焼畑との社会体制の違いとは?
>> エジプト、中東、インド
>> (麦による灌漑畑作と言えるでしょう)中国黄河流域も、と長江流域、弥生の日本(灌漑水田)、
>> 焼畑による社会構造とその文明、これは、中米マヤ、アステカ、縄文なんかにらうと思いますけど。
「灌漑畑作」って面白いですネ。確かに、灌漑の有無は大きな意味がありますネ。
ただし、畑作は灌漑が必ず必要とは言えませんが水稲耕作は当たり前ですが必須で、
縄文の稲作は陸稲の灌漑を伴わない畑作、弥生は水稲耕作でしょう。
蛇足ですが、長江文明は良渚、石家河、河姆渡、三星堆などですが、水田稲作だと考えられています。
>> >> 放送に出ていた菜畑を始め、北部九州の水田稲作受容期の集落は灌漑水路だけでなく、土器(無紋土器)をはじめ住居(松菊里型+環濠)から墓(支石墓・甕棺・刳り貫き木棺)まで、多くの半島系遺物を伴っています。
>> 大陸文化体制と言う事でしょうが、渡ってきたヒトがふえて流れ込んだっていうのとどれだけ違うのかいめー字で着ません。
温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混哉すると寒冷地適応すると言うのは昨年知ったと記憶してが、
水稲受容期の考古学的資料の示す所は放送内容(縄文人が陸稲を水稲耕作した)とは違いますネ。
縄文時代とは隔絶した形で、環濠集落、松菊里式住居、農具、を伴った完成された水稲耕作が入ってきています。
ついでに、稲が中国大陸から直接渡来したか、半島経由かと言うのは考古学者と植物学者でしばしば意見が分かれます。
今回のNHKの放送内容は植物学寄りでした。(韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは前週)
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月13日(火)22時13分35秒 ]
>> 畑作物ですけど、米なので、弥生時代の項目には学校の教科書には、アリアンセンでしたが、
>> 当然とは、何時頃からわかってのでしょうか
>> 皮肉屋、揚げ足とりではなく、まじめにお尋ねします。
縄文遺跡からの炭化米、プラントオパール、籾圧痕などは相当前(籾圧痕は1932年・川上勇輝)からあったようです。
ただ、米があるからと言っても栽培していたと言う考古学的証拠は(水田じゃないから当然)ないと言うことで断定されていなかったようです。
最近になってDNAを初めとして自然科学的分析が(考古学で)利用、理解されるようになって、認めてもいいじゃないかと言う雰囲気になった?
私が、はっきり「縄文時代に稲作はあった」というのを目にした最初は広瀬和雄氏の「縄文から弥生への新歴史像」(1997・角川書店)です。
>> 灌漑畑作と灌漑水田と焼畑との社会体制の違いとは?
>> エジプト、中東、インド
>> (麦による灌漑畑作と言えるでしょう)中国黄河流域も、と長江流域、弥生の日本(灌漑水田)、
>> 焼畑による社会構造とその文明、これは、中米マヤ、アステカ、縄文なんかにらうと思いますけど。
「灌漑畑作」って面白いですネ。確かに、灌漑の有無は大きな意味がありますネ。
ただし、畑作は灌漑が必ず必要とは言えませんが水稲耕作は当たり前ですが必須で、
縄文の稲作は陸稲の灌漑を伴わない畑作、弥生は水稲耕作でしょう。
蛇足ですが、長江文明は良渚、石家河、河姆渡、三星堆などですが、水田稲作だと考えられています。
>> >> 放送に出ていた菜畑を始め、北部九州の水田稲作受容期の集落は灌漑水路だけでなく、土器(無紋土器)をはじめ住居(松菊里型+環濠)から墓(支石墓・甕棺・刳り貫き木棺)まで、多くの半島系遺物を伴っています。
>> 大陸文化体制と言う事でしょうが、渡ってきたヒトがふえて流れ込んだっていうのとどれだけ違うのかいめー字で着ません。
温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混哉すると寒冷地適応すると言うのは昨年知ったと記憶してが、
水稲受容期の考古学的資料の示す所は放送内容(縄文人が陸稲を水稲耕作した)とは違いますネ。
縄文時代とは隔絶した形で、環濠集落、松菊里式住居、農具、を伴った完成された水稲耕作が入ってきています。
ついでに、稲が中国大陸から直接渡来したか、半島経由かと言うのは考古学者と植物学者でしばしば意見が分かれます。
今回のNHKの放送内容は植物学寄りでした。(韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは前週)
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月14日(水)13時50分13秒 ]
>> >> >> 武術のプロ達の間で、何代もかけて洗練された後世の流儀武術としての鎌術を、
>> >> >> そのまま弥生時代の戦闘に当てはめる事はできないのではないですか?
もうひとつ、生き残るため親子代々に伝えられる
技術と言うものは、何時の世も変わらないと思いますが。
証拠がまったくと言って好いほど見つからない件ですのでこれまでにしたいと思います。
>> >> ひとつ言える事は、戦いのとき必ず使われると思うものがある。 棒、棍棒、棍の類と斧です。
>> >> この場合、槍と矛を分けていますから入れる事ができない(笑い)。
>> 棒、棍棒、棍の類と斧は、必ず戦いで使われるというものではないのでは?
これある程度、歴史的に裏づけのある事なんです。
棒とか棍棒これには、説明要らないと思いますが、
中国で、鞭とかカン(字が出てこない)とか呼ばれるのは、
棍棒に類するものなのですから、
よろいなどが、発達するとこんな武器が使われるようになるんです。
また、棒は、槍折れ棒という言葉もございます。
そして、ヨーロッパの例ですけど、かなりの人間が、棒やコンを使って戦っているようです。
十字軍あたりの時代ですが
斧や鉈は野営する場合薪を切り出したり割ったりするのに必要でしょ(笑い)。
ですが、これだけでも強力な武器である事をお忘れです。
>> >> で争いがある以上、素朴な護身術が、手元にあるもので戦うと言う
>> >> コンセプトでできてもおかしくないと思いますけど?
>> 日常で使用する道具を、武器として使う事はあったと思います。
>> ただ、後世の流儀武術ほど進化した技法があった訳ではないでしょう。
>> それと、奇襲された場合とか、武器が足りない場合以外では、矛や剣や戈を使っ
>> て戦ったのではないでしょうか?
ほとんどの場合、金属製の武器は、不足していたか、防具の上から、ダメージを与えられるような武器が混ぜられて使われていました。
それには、日常の道具で都合の良い物が多くあったと言う事です。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月13日(火)21時30分18秒 ]
>> 中広形以降のは祭器ですから消費財じゃないっすしネ。
まあ、それは言えますね。
>> >> >> 北部九州では墓に副葬出来るくらい沢山あったし。(^_^;)
>> >> >> 上述の「先の曲がった薄刃の鎌のような武器」は勿論、鎌も出土してない。
>> >> >> 考古学的には物が出ないことには、推論の域を出ません。
>> >> その点は、同意します。
>> ってことで、近畿で矛か戈が出土してますか?
そう言えば、出ていたと思いますが、改めて聞かれると、
具体例????となってしまいますね。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月14日(水)00時37分12秒 ]
>> >> 九州にはヤマトという地名はないのだから、邪馬台国が
>> >> もともと九州だったというのはおかしいです。
>> へっ!?九州に「ヤマト」が無いって?
>>
>>
山門郡の範囲は広いです。八女もかつては山門でしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
佐賀大和って地名はご存じないですか。
加えて、「大和」は音韻法則からして 「邪馬台」で自然なんですか?
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月15日(木)07時26分31秒 ]
>> >> >> >> 武術のプロ達の間で、何代もかけて洗練された後世の流儀武術としての鎌術を、
>> >> >> >> そのまま弥生時代の戦闘に当てはめる事はできないのではないですか?
>> もうひとつ、生き残るため親子代々に伝えられる
>> 技術と言うものは、何時の世も変わらないと思いますが。
>> 証拠がまったくと言って好いほど見つからない件ですのでこれまでにしたいと思います。
技術の変化は、文献的にも実技的にもある程度裏付けられるのですが、弥生時代
の事は分かりませんから、これ以上の議論は必要ないかもしれないですね。了解
しました。
>> >> >> ひとつ言える事は、戦いのとき必ず使われると思うものがある。 棒、棍棒、棍の類と斧です。
>> >> >> この場合、槍と矛を分けていますから入れる事ができない(笑い)。
>> >> 棒、棍棒、棍の類と斧は、必ず戦いで使われるというものではないのでは?
>> これある程度、歴史的に裏づけのある事なんです。
>> 棒とか棍棒これには、説明要らないと思いますが、
>> 中国で、鞭とかカン(字が出てこない)とか呼ばれるのは、
>> 棍棒に類するものなのですから、
>> よろいなどが、発達するとこんな武器が使われるようになるんです。
>> また、棒は、槍折れ棒という言葉もございます。
>> そして、ヨーロッパの例ですけど、かなりの人間が、棒やコンを使って戦っているようです。
>> 十字軍あたりの時代ですが
>> 斧や鉈は野営する場合薪を切り出したり割ったりするのに必要でしょ(笑い)。
>> ですが、これだけでも強力な武器である事をお忘れです。
そういう武器が存在する事は知っていますが、『必ず』使用されたという訳ではな
いのではないでしょうか?
外国の話はよく知らないのですが、日本の場合、上杉家軍役帖によると、鑓が3
604人と最も多く、次に多いのが手明と呼ばれる兵糧を積んだ馬を引く兵士で65
0人、この人達の武装は日本刀です。その次が馬上で566人、原則として鑓、日
本刀中心の武装です。このように、どこにも棒200人とか、斧300人とか書いて
ありません。
また、弓取り、一番鑓、などの称号はあっても、一番斧などの称号はありません。
足軽の場合は、大名が武器、防具を貸し与える場合が多かったようです。
それに対して武士は、基本的に自前で武具を揃えるので、中には金砕棒や斧を使
った人もいたようです。しかし、それは例外的であったのでしょう。
何とか合戦図とかいう絵を見ても、圧倒的に鑓が多くて棒や斧はほとんど描かれ
ていませんし、古武道でも金砕棒や斧を使う流儀は聞いた事がないですから。
普通の棒を使う流儀はありますが、普通の棒は戦場に持っていくものではありま
せん。
因みに、槍折れの棒というのは、戦場で槍の穂先を斬られた時に残った柄で戦っ
たという話で、最初から殺傷力の低い棒術を使うという訳ではありません。
また、陣地の構築などの作業に斧や鉈を使ったことは確かですが、専用の武器が
あれば普通はそっちを使いますし、武士の時代は十分武器がありました。
さらに戦国時代は、戦闘が組織化され(厳密にはもっと昔から組織化されていまし
たが特にそれが進んだのが戦国時代)ていますので、武士はともかく徹底した集
団戦をする足軽は、規格外の武器を使うと邪魔になります。
但し、斧は城門の破壊に使われたらしいですが。
弥生時代の戦闘の場合は、よく分かりません。武器の普及率や、戦闘の規模、組
織などが分かれば推測はできるでしょうが。
>> >> 日常で使用する道具を、武器として使う事はあったと思います。
>> >> ただ、後世の流儀武術ほど進化した技法があった訳ではないでしょう。
>> >> それと、奇襲された場合とか、武器が足りない場合以外では、矛や剣や戈を使っ
>> >> て戦ったのではないでしょうか?
>> ほとんどの場合、金属製の武器は、不足していたか、防具の上から、ダメージを与えられるような武器が混ぜられて使われていました。
金属製の武器が不足していたというのは、弥生時代限定ですか?それとも他の時
代や国を含むのですか?
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月14日(水)22時06分25秒 ]
>> 縄文遺跡からの炭化米、プラントオパール、籾圧痕などは相当前(籾圧痕は1932年・川上勇輝)からあったようです。
>> ただ、米があるからと言っても栽培していたと言う考古学的証拠は(水田じゃないから当然)ないと言うことで断定されていなかったようです。
なるほど、陸稲と言う米の存在を十分承知していながら、現在の、米ならば水田だ、
と言う先入観で頭が動いていたわけですね。
>> 最近になってDNAを初めとして自然科学的分析が(考古学で)利用、理解されるようになって、認めてもいいじゃないかと言う雰囲気になった?
>> 私が、はっきり「縄文時代に稲作はあった」というのを目にした最初は広瀬和雄氏の「縄文から弥生への新歴史像」(1997・角川書店)です。
それでも、4年も前だったんですか。
そして、自然科学と言う別の証拠によって始めてみとめられたと。
>> >> 灌漑畑作と灌漑水田と焼畑との社会体制の違いとは?
>> >> エジプト、中東、インド
>> >> (麦による灌漑畑作と言えるでしょう)中国黄河流域も、と長江流域、弥生の日本(灌漑水田)、
>> >> 焼畑による社会構造とその文明、これは、中米マヤ、アステカ、縄文なんかにらうと思いますけど。
>> 「灌漑畑作」って面白いですネ。確かに、灌漑の有無は大きな意味がありますネ。
>> ただし、畑作は灌漑が必ず必要とは言えませんが水稲耕作は当たり前ですが必須で、
>> 縄文の稲作は陸稲の灌漑を伴わない畑作、弥生は水稲耕作でしょう。
>> 蛇足ですが、長江文明は良渚、石家河、河姆渡、三星堆などですが、水田稲作だと考えられています。
その通りです。
書いている通り、灌漑の問題は大きいのですが、
マヤなど純粋に焼畑で高度な文明を築いています。
では、縄文の場合は、どうか?と言うことになるでしょう。
米は、トウモロコシと比べて、生産力は大きいはずです。
人を養うのに、米とジャガイモほど良い作物はないと聞いています。
縄文とは、弥生に対してそんなに劣っていると言う言い方はまずいか、不利なのでしょうかね?
>> >> >> 放送に出ていた菜畑を始め、北部九州の水田稲作受容期の集落は灌漑水路だけでなく、土器(無紋土器)をはじめ住居(松菊里型+環濠)から墓(支石墓・甕棺・刳り貫き木棺)まで、多くの半島系遺物を伴っています。
>> >> 大陸文化体制と言う事でしょうが、渡ってきたヒトがふえて流れ込んだっていうのとどれだけ違うのかいめー字で着ません。
>> 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混哉すると寒冷地適応すると言うのは昨年知ったと記憶してが、
>> 水稲受容期の考古学的資料の示す所は放送内容(縄文人が陸稲を水稲耕作した)とは違いますネ。
>> 縄文時代とは隔絶した形で、環濠集落、松菊里式住居、農具、を伴った完成された水稲耕作が入ってきています。
>> ついでに、稲が中国大陸から直接渡来したか、半島経由かと言うのは考古学者と植物学者でしばしば意見が分かれます。
>> 今回のNHKの放送内容は植物学寄りでした。(韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは前週)
なるほど、朝鮮半島から栽培法が伝わってきた可能性が有るわけですね。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月16日(金)12時07分28秒 ]
>> >> >> 棒、棍棒、棍の類と斧は、必ず戦いで使われるというものではないのでは?
>> >> これある程度、歴史的に裏づけのある事なんです。
>> >> 棒とか棍棒これには、説明要らないと思いますが、
>> >> 中国で、鞭とかカン(字が出てこない)とか呼ばれるのは、
>> >> 棍棒に類するものなのですから、
>> >> よろいなどが、発達するとこんな武器が使われるようになるんです。
>> >> また、棒は、槍折れ棒という言葉もございます。
>> >> そして、ヨーロッパの例ですけど、かなりの人間が、棒やコンを使って戦っているようです。
>> >> 十字軍あたりの時代ですが
>> >> 斧や鉈は野営する場合薪を切り出したり割ったりするのに必要でしょ(笑い)。
>> >> ですが、これだけでも強力な武器である事をお忘れです。
>> そういう武器が存在する事は知っていますが、『必ず』使用されたという訳ではな
>> いのではないでしょうか?
>> 外国の話はよく知らないのですが、日本の場合、上杉家軍役帖によると、鑓が3
>> 604人と最も多く、次に多いのが手明と呼ばれる兵糧を積んだ馬を引く兵士で65
>> 0人、この人達の武装は日本刀です。その次が馬上で566人、原則として鑓、日
>> 本刀中心の武装です。このように、どこにも棒200人とか、斧300人とか書いて
>> ありません。
>> また、弓取り、一番鑓、などの称号はあっても、一番斧などの称号はありません。
>> 足軽の場合は、大名が武器、防具を貸し与える場合が多かったようです。
>> それに対して武士は、基本的に自前で武具を揃えるので、中には金砕棒や斧を使
>> った人もいたようです。しかし、それは例外的であったのでしょう。
>> 何とか合戦図とかいう絵を見ても、圧倒的に鑓が多くて棒や斧はほとんど描かれ
>> ていませんし、古武道でも金砕棒や斧を使う流儀は聞いた事がないですから。
>> 普通の棒を使う流儀はありますが、普通の棒は戦場に持っていくものではありま
>> せん。
>> 因みに、槍折れの棒というのは、戦場で槍の穂先を斬られた時に残った柄で戦っ
>> たという話で、最初から殺傷力の低い棒術を使うという訳ではありません。
>> また、陣地の構築などの作業に斧や鉈を使ったことは確かですが、専用の武器が
>> あれば普通はそっちを使いますし、武士の時代は十分武器がありました。
>> さらに戦国時代は、戦闘が組織化され(厳密にはもっと昔から組織化されていまし
>> たが特にそれが進んだのが戦国時代)ていますので、武士はともかく徹底した集
>> 団戦をする足軽は、規格外の武器を使うと邪魔になります。
>> 但し、斧は城門の破壊に使われたらしいですが。
>> 弥生時代の戦闘の場合は、よく分かりません。武器の普及率や、戦闘の規模、組
>> 織などが分かれば推測はできるでしょうが。
>> >> >> 日常で使用する道具を、武器として使う事はあったと思います。
>> >> >> ただ、後世の流儀武術ほど進化した技法があった訳ではないでしょう。
>> >> >> それと、奇襲された場合とか、武器が足りない場合以外では、矛や剣や戈を使っ
>> >> >> て戦ったのではないでしょうか?
>> >> ほとんどの場合、金属製の武器は、不足していたか、防具の上から、ダメージを与えられるような武器が混ぜられて使われていました。
>> 金属製の武器が不足していたというのは、弥生時代限定ですか?それとも他の時
>> 代や国を含むのですか?
時代には、あまり関係有りませんね。
近代に入るまで、武器は恒に不足したと見るべきなのです。
弥生時代に限っても、鏃に石が使われていることが、もっとも象徴的でしょう。
防具をつけていない場合、石の鏃のほうが威力があると言う実験結果を耳にした事があります。
しかし、防具をつけた相手には、同やら金属の鏃が必要らしい。
なのに、正面からの戦に使われているような、気配があるようです。
これは、金属が不足していた証拠でしょう。
また戦国時代に付いては、やはり信長が具足類を支給した筆頭でしょう。
つまりかなりの身分の侍まで具足を貸し出されているんです。
つまり、それだけ武器類が高価だったんでしょうね。
それだけの、武具をそろえられるこ他が、動員できる兵の両でも有ったと思います。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月16日(金)12時20分02秒 ]
>> >> ついでに、稲が中国大陸から直接渡来したか、半島経由かと言うのは考古学者と植物学者でしばしば意見が分かれます。
>> >> 今回のNHKの放送内容は植物学寄りでした。(韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは前週)
>> なるほど、朝鮮半島から栽培法が伝わってきた可能性が有るわけですね。
米作が朝鮮半島から伝わったとすれば朝鮮半島には何処から伝わったのでしょう。
河北や遼東では米作は出来なかった筈ですが。
半島も同じように南の方から海を介して伝わったと聞いていますが。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月16日(金)19時39分37秒 ]
>> >> >> ついでに、稲が中国大陸から直接渡来したか、半島経由かと言うのは考古学者と植物学者でしばしば意見が分かれます。
>> >> >> 今回のNHKの放送内容は植物学寄りでした。(韓国の遺跡から出土した稲の中にも(DMA鑑定で)温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざっていたことが発表されたのは前週)
>> >> なるほど、朝鮮半島から栽培法が伝わってきた可能性が有るわけですね。
>> 米作が朝鮮半島から伝わったとすれば朝鮮半島には何処から伝わったのでしょう。
>> 河北や遼東では米作は出来なかった筈ですが。
>> 半島も同じように南の方から海を介して伝わったと聞いていますが。
松菊里から水稲耕作技術を含む一切合財を持ち込んだ集団(環濠集落もだから村ごとというべきか)があったことはほぼ定説ですが、
松菊里の水稲耕作がどこから伝わったかは不明ですね。
華北や遼東を経由していないと思われます。
今月の「歴史街道」に長江周辺の遺跡調査で稲作は平野が先で山地は後と言う記事が出ています。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月2日(金)19時40分50秒 ]
>> >> >> >> >> 卑弥呼共立時期にはほぼ最盛期ですね。
>> >> 会社でも売上の伸びが止まると衰退期。減りだしたらもはや危機的状況。
>> >> 二世紀後半は妻木晩田の人口は減少していますから衰退期ですね。
>> >> 何らかの事情で立ち行かなくなっていた。
>> 弥生終末期あたりから集落の形態が変わり始めたという考えもあり、一概に言えないのでは?
>> 相対的には同時期の目立つ集落でしょう。
>> もしたちゆかなくなっていたと言うなら、日本中立ち行かなくなっていた。
>> >> >> 弥生の巨大集落がほぼ連続的に古墳時代に突入していっている数少ない例と思います。
>> >> >> 3世紀に衰退しているのは、庄内期にはいっての政治構造の変化が波及していると思います。
>> >> >> そこらへんは唐古・鍵よりも遅れる。
>> >> >> つまりある程度の独自性も有ったのでは?
>> >> 単に畿内より古墳時代の到来が遅れただけでしょうね。
>> >> 畿内や北陸、東海、四国で始まった古墳時代が半世紀ほど遅れた可能性があります。
>> 半世紀遅れたなどという話は知りませんでした。
>> 紀年鏡の神原神社古墳などもありますが。
>> >> なぜ古墳時代の到来直前に巨大弥生遺跡が衰退したかを考えた時に真実が見えてきそうな気がします。
>> >> これまで考古学者はこの事実をどのように説明しているのでしょう。
>> そこらへん集中的に議論されてますね。
>> 環濠集落から散村+古墳+豪族居館の形態へ。
>> >> >> 投馬国で有るかどうかはともかく、”ははき”の遺跡としてとても重要ですよね。
>> >> >> 山陰が発生期大和政権に及ぼした影響を考えるとき無視できません。
>> >> 投馬国に比定するには周囲も含めて5万戸の人口を支える拡がりが持てたかを考えなければなりませんね。
>> >> 当時の地形も考えて。
>> 通常の年代観で三世紀末、山陰には多くの四隅突出型墳丘墓が生まれています。
>> 個々にみても弥生墳丘墓のなかで、同時期最大級のものが多数出ています。
>> この地域、つまり石見から出雲、伯耆、因幡をまとめれば、かなりの勢力でしょう。
ちと気になることがありまして、この時代背景なんですが、
まず、アジアの中で中国の戦乱、このため逃げ出した人々が、
大量に雪崩れ込む状況と言えるでしょう。
で、これが問題をややこしくしていると言えるのでしょう。
戦乱と疫病はまずき離反して考えるのは、難しいでしょう。
縄文時代からのの人たちは、新来の人々の持ち込む
疫病に一たまりもなかったんじゃないかと考えら得るのです。
これには、記録に残る実例が、あるので考えられるのですが、
それはアメリカの例なのです、元から住んでいた人たちが、
白人の持ち込んだ、天然痘のため大打撃を受けたことが、
敗れ去る最大の理由だったと聞いています。
それがなければ、数に勝る先住民が、白人を圧倒していた
可能性も有るそうです。
今、その天然痘テロに脅えているのだから、
因果は巡る糸車ともいえますが。
ま、それは、置いておいて、似たようなことで、
それまでの、都市と呼んで好いのでしょう。
が、衰退することは考えられないでしょうか?
その時代、考えられる最悪のものは、ペストと天然痘でしょう。
古事記や書記の記事にも、疫病の花静めの記事が多々あるように思います。
人の移動が少なければ、感染率も低いのでしょうが、
難民の流入からするなら考慮の必要があると思います。
中国での、その時代背景での疫病記録は、どうなっているのでしょう。
ご存知の方は、教えていただきたいのですが。
また、人骨から疫病でのしは、鑑定できないのでしょうか?
元の発言 [ Re: トンでもない ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月13日(火)10時21分12秒 ]
馬頭鬼さん>> 大和朝廷で、隼人の兵が使われていましたねそん案おにつながるのかな?
>> 隼人の元は熊襲、熊襲の元は球磨+曽於、球磨の元は狗奴、
>> 大和朝廷は女王国と敵対していた「狗奴国」と通じていたんでしょう。
>> 神武の出身地は日向だから、狗奴国から大和に入ったと言った方が正しいか。
>>
>>
>>
>>
おにりんさんの解釈は?
却下するだけでなく、近畿説を根拠にしない貴方のご意見を頂きたいです。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月16日(金)20時56分37秒 ]
>> 松菊里から水稲耕作技術を含む一切合財を持ち込んだ集団(環濠集落もだから村ごとというべきか)があったことはほぼ定説ですが、
>> 松菊里の水稲耕作がどこから伝わったかは不明ですね。
>> 華北や遼東を経由していないと思われます。
>> 今月の「歴史街道」に長江周辺の遺跡調査で稲作は平野が先で山地は後と言う記事が出ています。
日本とは、逆なわけですね。
(茶々です。梅干と日本刀と言う本で、樋口先生が、山田と言う姓は、山からとんぼを作り始めたからだ。などと書かれておられたので。(笑))
まじめな話、土器の焼き方が変わってしまったようですし。
それもかなり短い間ですよね。
そんなに広い範囲に多くの人が来たのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月16日(金)20時56分37秒 ]
>> 松菊里から水稲耕作技術を含む一切合財を持ち込んだ集団(環濠集落もだから村ごとというべきか)があったことはほぼ定説ですが、
>> 松菊里の水稲耕作がどこから伝わったかは不明ですね。
>> 華北や遼東を経由していないと思われます。
>> 今月の「歴史街道」に長江周辺の遺跡調査で稲作は平野が先で山地は後と言う記事が出ています。
なんとなく半島と日本は同時期に稲作が始まったような気がしていましたが半島ではBC2000年位から始まっているんですね。
BC2000年頃温暖化の影響で洪水が発生し、長江文化が壊滅したと聞きましたが、となると稲作は山東半島あたりから朝鮮半島に移ったんでしょうか?
松菊里でふと思ってんですが白山神社の祭神「菊里姫」ってなんか関係あるんでしょうか?
「ククリ姫」ですから高句麗由来の神社だとばかり思っていましたが、「松菊里」から稲作が伝わったとなるとこちらの関連も気になります。
元の発言 [ 松菊里と白山信仰 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月17日(土)05時32分27秒 ]
>> >> 松菊里から水稲耕作技術を含む一切合財を持ち込んだ集団(環濠集落もだから村ごとというべきか)があったことはほぼ定説ですが、
>> >> 松菊里の水稲耕作がどこから伝わったかは不明ですね。
>> >> 華北や遼東を経由していないと思われます。
>> >> 今月の「歴史街道」に長江周辺の遺跡調査で稲作は平野が先で山地は後と言う記事が出ています。
>> なんとなく半島と日本は同時期に稲作が始まったような気がしていましたが半島ではBC2000年位から始まっているんですね。
>> BC2000年頃温暖化の影響で洪水が発生し、長江文化が壊滅したと聞きましたが、となると稲作は山東半島あたりから朝鮮半島に移ったんでしょうか?
>> 松菊里でふと思ってんですが白山神社の祭神「菊里姫」ってなんか関係あるんでしょうか?
>> 「ククリ姫」ですから高句麗由来の神社だとばかり思っていましたが、「松菊里」から稲作が伝わったとなるとこちらの関連も気になります。
菊里姫といいますと、イザマミとイザナギが、夜持比羅坂で岩越しに喧嘩したとき、
調停した神でしたよね。
イザナギの剣は、伊都の尾羽だとすると。
伊都国関係とべつの集団の争いをこの神を戴く集団が調停したとも読めなくもない。深読みし過ぎですが。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月16日(金)19時23分49秒 ]
>> >> >> ほとんどの場合、金属製の武器は、不足していたか、防具の上から、ダメージを与えられるような武器が混ぜられて使われていました。
>> >> 金属製の武器が不足していたというのは、弥生時代限定ですか?それとも他の時
>> >> 代や国を含むのですか?
>> 時代には、あまり関係有りませんね。
>> 近代に入るまで、武器は恒に不足したと見るべきなのです。
近代に入るまでというのは、大げさではありませんか?
戦国時代になると、長船から毎日昼夜の別なく駄馬で刀を発送していたといいます
し、85年間で約百十三万八千本の刀が明に輸出されたという試算があります。
秀吉の時代になっても、日本の兵力は約五十万〜六十万ですから、全ての兵士
に持たせても余りあるだけの武器があったという事になります。
>> 弥生時代に限っても、鏃に石が使われていることが、もっとも象徴的でしょう。
>> 防具をつけていない場合、石の鏃のほうが威力があると言う実験結果を耳にした事があります。
>> しかし、防具をつけた相手には、同やら金属の鏃が必要らしい。
石の方が威力があるというのは、本当なのでしょうか?
牛とか豚などの動物を使った実験でもしたのでしょうか。
所で、弥生時代にどの程度防具があったのでしょうか?
>> なのに、正面からの戦に使われているような、気配があるようです。
>> これは、金属が不足していた証拠でしょう。
確かに、弥生時代は不足していたのでしょうね。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月16日(金)21時09分49秒 ]
>> >> 松菊里から水稲耕作技術を含む一切合財を持ち込んだ集団(環濠集落もだから村ごとというべきか)があったことはほぼ定説ですが、
>> >> 松菊里の水稲耕作がどこから伝わったかは不明ですね。
>> >> 華北や遼東を経由していないと思われます。
>> >> 今月の「歴史街道」に長江周辺の遺跡調査で稲作は平野が先で山地は後と言う記事が出ています。
>> 日本とは、逆なわけですね。
>> (茶々です。梅干と日本刀と言う本で、樋口先生が、山田と言う姓は、山からとんぼを作り始めたからだ。などと書かれておられたので。(笑))
照葉樹林文化論による誤解が続いていたための間違いです。
もっとも、福岡県小郡市・三沢公家隈(みつさわこうけんくま)遺跡では、
紀元前一世紀の地層から、日本最古の「谷水田」跡が出土しています。
両側を約十bの丘陵に挟まれた幅三十bの細い谷、上下の層があり、下層からは水田沿いに幅四十aの水路跡と約二十bの杭列が見つかった。
遺跡近くには川が無く、湧水をためる「ため井」跡が三ヶ所発掘された。
「平野の人口が増加したため、丘陵や山間部に移り住んだ当時の生活を物語っている。近くの集落からは、狩猟道具も見つかっており、農耕と狩で何とか食料を確保していたのでは」(市教育委員会)との発表が1999年10月にあっています。
平野の水田開拓が思いのほか早かったことを物語っています。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月18日(日)18時15分53秒 ]
>> >> (茶々です。梅干と日本刀と言う本で、樋口先生が、山田と言う姓は、山からとんぼを作り始めたからだ。などと書かれておられたので。(笑))
>> 照葉樹林文化論による誤解が続いていたための間違いです。
>> もっとも、福岡県小郡市・三沢公家隈(みつさわこうけんくま)遺跡では、
>> 紀元前一世紀の地層から、日本最古の「谷水田」跡が出土しています。
>> 両側を約十bの丘陵に挟まれた幅三十bの細い谷、上下の層があり、下層からは水田沿いに幅四十aの水路跡と約二十bの杭列が見つかった。
>> 遺跡近くには川が無く、湧水をためる「ため井」跡が三ヶ所発掘された。
>> 「平野の人口が増加したため、丘陵や山間部に移り住んだ当時の生活を物語っている。近くの集落からは、狩猟道具も見つかっており、農耕と狩で何とか食料を確保していたのでは」(市教育委員会)との発表が1999年10月にあっています。
>> 平野の水田開拓が思いのほか早かったことを物語っています。
でも、ひとつ菜畑の水田を見て気づいたんですが、
なんだかあの形だと丘陵や山間部の方が、作りやすそうな、感じがします。
水の確保さえできるのなら、山間部は、兎も角、
丘陵部は、洪水などの心配も少ないのでは?
縄文に人たちが、暮らしていた場所は、ある意味非常に安全な場所でしたよね。
だとするなら、その当たりから水田を作る方が自然では?
久しぶりに投稿します。
過去に議論されつくしたことの蒸し返しとのご批判もあろうかとは思いますが、表題についての古田氏の解釈にどうしても納得いかないところがあるものですから、、、
どうかご容赦願います。
●「世有王、皆統属女王国」の解釈
(1)「世有王」の時相は?
陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、
『中国語は活用しませんし、“てにをは”も時相(テンス)もほとんどありません。
―我念書。
右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。しかし、これを、
<私は本を読んだ>
と、過去に訳してもまちがいとはいえません。
<私は(これから)本を読もう>
と、未来に解してもかまわないのです。
現在であるか過去であるか、それとも未来であるかは、前後の関係できめるほかありません。』
と、あります。
翻って、
伊都国の「世有王」は<代々、王がいる>と現在形で読まれ、親魏倭王卑弥呼と同じ時代に伊都国王が存在していたと解されています。
しかし倭の諸国のうち、狗奴国には女王卑弥呼に「不属」の男王卑弥弓呼の存在は書かれていますが、女王に属する諸国には通説が漢の光武帝から金印を賜ったとする奴国にも王の存在は書かれていません。
卑弥呼は「邪馬台国の女王」と形容されることも屡々ですが、邪馬壹国は女王の都(居城)する所であって、邪馬壹国にも「王がいる」とは書かれていません。(卑弥呼は「親魏倭王」ですから、邪馬壹国には「倭王が居る」とは言えます。)
従って、女王に属する諸国には王が存在したとは書かれていないのに、伊都国のみ王が存在すると解すべき積極的理由はありません。
(後漢書に「国皆称王、世世伝統、其大倭王居邪馬臺國」とあることから、倭の諸国は皆、王を自称していたとするむきもあります。
しかし、これは范曄が伊都国王についていう「世有王、皆統属女王国」を、「世有王皆統、属女王国」と読んでしまったからでしょう。
「国皆称王、世世伝統」は、「世有王皆統」の“世”“王”“皆”“統”から造文することができます。
「統属」を切り離して「属女王国」としたことで、代々の伊都国王をいう「皆」は范曄の頭の中で、卑弥呼に属する倭の諸国王となったのでしょう。
その結果、「大倭王」となった卑弥呼は「邪馬臺国」に居す「邪馬台国の女王」になったのだと思います。)
「世有王」の世とは“代々、父子相つぐこと”という意味ですから(周礼:「世相朝也。【父死子立、曰世】」)、どちらかというと現在より過去に重きをおいた用語です。
倭人伝には卑弥呼以前の王について「其国本亦以男子為王」とあり、この過去の男王は漢の時代の王ということです。
陳寿は、後漢書が魏志以外の資料から引く建武中元二(57)年の「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫」を引用し、「自古以來、其使詣中国、皆自称大夫」としていますから、倭国の極南界の「倭奴国」が光武帝から金印(「漢委奴国王」)を賜ったことは知っていました。
当然、安帝永初元(107)年の「倭国王帥升」のことも知っていたでしょう。
帥升が倭国王と書かれるのは、倭の諸国を統帥する盟主として倭奴国(委奴国)が賜った、「漢委奴国王」の爵位を代々世襲していると見ているからでしょう。
(隋書には「漢光武時、遣使入朝、自称大夫、安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」とあります。)
「世有王」は<代々、王がいた>と過去に読んで、代々の伊都国王とは漢の時代には倭奴(委奴)と表記された国に都する、「親魏倭王」以前の「漢委奴国王」のことではないでしょうか。
(2)「伊都」とは?
古田氏は倭奴(委奴)は音韻的に伊都(イト)とは読めないとしています。
その上で伊都の伊は、伊邇(これちかし)の例から“近い”という意味であり、伊都とは都(邪馬壹国)に近いという意味であるとしています。
しかし、都に近いということであれば、古田氏が主張する邪馬壹国の玄関たる不彌国の方がより都に近いのではないでしょうか。
伊邇の伊(これ)は発語の辞としての意味以上のものではないでしょう。
古田氏の論理に従えば、伊始(これはじめ)や伊昔(これむかし)から、「伊」には“はじめ”とか“むかし”の意味もあることになります。
「伊」には発語の辞としての意味のほかにも、字の前後について熟語を作る動作状態を形容する助辞の意もあります。
伊都の伊はこの意味で使われており、伊都国が親魏倭王の都する邪馬壹国以前のかつての倭国の都、すなわち漢委奴国王の都する倭奴国(委奴国)であることを示しているのでしょう。
(3)「皆統属女王国」の統主は?
古田氏は、「A属B」は「AがBに属す」との語法であり、「統属女王国」も<女王国に統属す>としか読めないとしています。
しかし、<女王国に統属す>とは意味的には女王の配下に入ることにほかなりませんが、そうであれば、狗奴国王との関係については「不属女王」とあるように、「女王国」ではなく「女王」とするところでしょう。
「不属女王」は<女王に属さず>と読んでも<女王を属さず>と読んでも、どちらも従属関係不存在という意味では変わりません。
これが「男王属女王」であれば、その主体(支配者)・客体(被支配者)の関係は文脈から判断して決めるしかないでしょう。
魏略西戎伝臨兒国条(全文はALEXさんの「漢籍の書棚」参照)の「浮屠属弟子別号、合有二十九」の属は、浮屠が臨蒲塞・桑門・伯聞・疏問・白疏間・比丘・晨門とは別号の弟子を“従える”ということではないでしょうか。
晋書地理志・平州(これもALEXさんちにあります)の「漢属右北平郡」は、<漢は右北平郡に属す>とは誰も読まないでしょう。ここは州と郡の関係ということで、漢の時代に右北平郡が平州に属したということでしょう。
王と王(人と人)、国と国という同格関係においては、その主客は文脈から判断するしかないと思いますが、伊都国王と女王国という王と国の関係においては、統属する主体(統主)はあくまでも人格たる王ではないでしょうか。
魏志梁習伝の「更拝議郎西部都督従事、統属冀州、総故部曲」の統属は、梁習と冀州という関係ですが、これを<(梁習を)冀州に統属す>と読むと、意味的には梁習を冀州刺史の配下に置いたということになります。
しかし、梁習は後漢末に別部司馬・領(=兼)并州刺史として烏丸の部衆を懐柔するという業績を上げ、「太祖これを嘉し、関内候の爵を賜い、更に真となす。長老称詠して、以て、自ら聞識するところの刺史にして、未だ習に及ぶもの非ずとなす。」とまで言わしめた人物です。
<故の部曲を総べる>とは、并州が冀州に併属された際に(建安十八年)、梁習が依然として并州の烏丸の部衆を掌握したということですから、<更めて議郎・西部都督従事を拝け>られた梁習は、冀州刺史を兼ねていたのではないでしょうか。(梁習は、魏朝になって、また并州が置かれるとその并州刺史になっています。)
并州が冀州に併属されたのも梁習という人物がいなかったらなかったかもしれません。
「更拝議郎西部都督従事、統属冀州、總故部曲」は、<更めて(梁習に)議郎・西部都督従事を拝く。(梁習は)冀州を統属し、故の部曲を総ぶ。>と読むのではないでしょうか。
更に、統属の統は“たばねる”“あわせる”という意味ですから、統べられる客体が単数ということはないでしょう。
蜀志費詩伝の「王沖者、広漢人也、為牙門將、統属江州督李厳。」は、王沖一人であっても「統属」が用いられていますが、これは蜀志李厳伝の「建興四年、転為前將軍、以諸葛亮欲出軍漢中、厳当知後事、移屯江州、留護軍、陳到駐永安、皆統属厳。」を背景にしているからでしょう。
歴代の伊都国王をいう「皆」は、その意味では複数ですが、統属関係の時点では当然一人です。従って、古田氏の<女王国に統属す>という読み方では、伊都国王一人を統属していたことになってしまいます。
「統属女王国」は<女王国を統属す>と読むしかありませんが、この女王国が邪馬壹国のことであるならば、これも又、代々の伊都国王は一つの国を統属していたことになってしまいます。
(4)女王国とは?
古田氏は、女王国とは邪馬壹国のこととしています。
(その上で、代々の伊都国王は今に至るまで邪馬壹国に統属しているのであり、過去において伊都国が倭国の中心国たり得たことはない。過去において中心国たる倭奴国とは、今も中心国である邪馬壹国のことであるとしています。)
しかし<邪馬壹国に統属す>とは、意味的には「邪馬壹国の女王」の配下に入ることです。「邪馬壹国の女王」とは卑弥呼をいうのでしょうが、卑弥呼が「邪馬壹国の女王」などとはどこにも書かれていません。
古田氏が女王国を邪馬壹国のことしているのは、「自女王國以北」「自郡至女王國萬二千餘里」の「自」や「至」がついた女王国が、「女王の都する所の国」という意味にしか解せないからに外なりません。
しかし、基点を指し示していうときの女王国が「女王の都する所の国」という意味にしか解せないからといって、これを三段論法的に「女王の都する所の国」は「邪馬壹国」である、だから「女王国」は「邪馬壹国」であるとするのは解釈の拡げ過ぎでしょう。
倭人伝が「女王国」という語句を用いている背景は、「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。」にあります。
「其国」の其は倭国のことを指示しているとするのが通説ですが、「其国」が倭国のことであるならば「其国…、倭国乱…」ではなく、「倭国…、其国乱…」とするところでしょう。
また、卑弥呼は諸国から「共立」されて「其国」の王となったのですから、「其国」が邪馬壹国ではあり得ないのは言うまでもありません。
「其國本亦以男子爲王」は<その国は、もとは亦(中国と同じように)男子をもって王となす>ということですから、「其国」とは昔は「男王国」であって今は<乃ち一女子を共立して王となす>「女王国」ということです。
倭人伝の記述するところに従えば、これを邪馬壹国の別称であるとか、否、倭国の別称であるとかと、固有名詞にあてて一義に解することはありません。
そもそも、女王国が邪馬壹国の別称として用いているならば、始めから邪馬壹国としておけばすむ話です。
「女王国」は普通名詞としての用語であり、「女王の都する所の国」の他にも、「女王の国」とか、「女が王の国」とか、「女王を共立してなる国」とか、「女王の支配する国」とか、「女王に属する国々の総称」などの意味を併せ持つと解釈すべきです。
「統属女王国」の女王国は、文字通り「女王の国」という用語でしょう。
「女王国東渡海千余里」の女王国は、「自」という基点を示す語がありませんので、この女王国も「女王の国」として用いられているのでしょう。(後漢書は「自女王国東度海千余里」と、「自」を書き加えています。)
(5)女王国と男王国
卑弥呼は「親魏倭王」とされたのですから、当然、魏朝が認めた倭国の王です。
しかし、倭国三十国のうち狗奴国は卑弥呼とは従属関係にない、卑弥弓呼を王とする「男王国」です。
(古田氏は狗邪韓国を倭国に含め、狗奴国は倭国に含めません。しかし、狗邪韓国は韓の狗邪国ということで、弁辰狗邪国のことでしょう。古田氏自身、邪馬壹国の壹は倭のこととしてはいなかったか。)
倭国のうち「女王境界」、すなわち卑弥呼の支配領域は「其余旁国」の奴国までです。
旁国は其(女王国)の余ですから、邪馬壹国を含む女王国より以北の国々も、また女王国の旁国です。(という言い方に何ら論理的矛盾はありません。)
倭国は卑弥呼の女王国と卑弥弓呼の男王国からなっています。
卑弥呼は魏朝が認めた倭国の王ですから、本来、「倭王」とするだけで十分なのですが、倭女王とも倭国女王(帝紀)とも書かれるのは、倭国には女王に属さない「男王」がいるからではないでしょうか。
卑弥弓呼が「王」となった経緯については三国志は何も語りませんが、「王」とは、公・侯・伯・子・男と並ぶ爵位の一つであり、中国から「王」と呼ばれるのは爵位を受けたものだけではないでしょうか。(通典:「魏黄初三(222)年、其の後、制を定む。凡そ国王、公、侯、伯、子、男の六等、次に縣、次に卿、次に亭侯、次に関内侯、又、名号侯の爵十八級、関中侯の爵十七級を置く。皆、金印紫綬。」)
(6)結論
「世有王、皆統属女王国」とは、卑弥呼共立以前の歴代の伊都国王(委奴国王)が、今は卑弥呼の支配する女王国を統属していたということである。
古田氏は、いわゆる倭都は邪馬壹国(倭奴国)で一貫していたとするが、漢代に伊都国(委奴国)にあった倭都は、魏代には伊都国から千五百里程離れた邪馬壹国に遷都していた。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月18日(日)13時55分05秒 ]
>> >> >> >> ほとんどの場合、金属製の武器は、不足していたか、防具の上から、ダメージを与えられるような武器が混ぜられて使われていました。
>> 近代に入るまでというのは、大げさではありませんか?
>> 戦国時代になると、長船から毎日昼夜の別なく駄馬で刀を発送していたといいます
>> し、85年間で約百十三万八千本の刀が明に輸出されたという試算があります。
>> 秀吉の時代になっても、日本の兵力は約五十万〜六十万ですから、全ての兵士
>> に持たせても余りあるだけの武器があったという事になります。
>> >> 弥生時代に限っても、鏃に石が使われていることが、もっとも象徴的でしょう。
>> >> 防具をつけていない場合、石の鏃のほうが威力があると言う実験結果を耳にした事があります。
>> >> しかし、防具をつけた相手には、同やら金属の鏃が必要らしい。
>> 石の方が威力があるというのは、本当なのでしょうか?
>> 牛とか豚などの動物を使った実験でもしたのでしょうか。
動物の体に実際に射込んで見た聞いています。
勿論生きた動物で話有りませんが、動物愛護協会の方もありますので(笑い)
生きていたらどうかということは、
やった人を知らないので(笑い)、
まじめな話、実際にやってみている人はいるようですが、結果情報は手に入れていません。
これは、実際に、狩猟をしている人らしいので念のため。
>> 所で、弥生時代にどの程度防具があったのでしょうか?
幾つか鎧とと盾が出土しているようですが、
実物を見た事が無いので、お答えできません。
どなたか、説明していただけませんか。
>> >> なのに、正面からの戦に使われているような、気配があるようです。
>> >> これは、金属が不足していた証拠でしょう。
>> 確かに、弥生時代は不足していたのでしょうね。
妻木晩田遺跡ですが、この地名の妻木山、妻木川について、由来をご存知のかたいらっしゃいますか。
ちょっと調べた限りではよく分からなかったもので。
地名ですが時折古い呼び名を漢字表記して、呼び名が変わっても漢字表記だけが残ることもあるようです。
つまり何が言いたかというと、妻木はむかしは”つまき”と読んだ可能性は無いのかな?と言うことです。
で、つまり、”つまき”なら投馬城、とか・・・
まあそんなことはないのでしょうが。
月初め早々つまらん話ですいません。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月2日(金)19時40分50秒 ]
>> 弥生終末期あたりから集落の形態が変わり始めたという考えもあり、一概に言えないのでは?
>> 相対的には同時期の目立つ集落でしょう。
>> もしたちゆかなくなっていたと言うなら、日本中立ち行かなくなっていた。
妻木晩田は他の弥生遺跡と少し違うと思っています。
妻木晩田遺跡には農耕の跡がありません。
また周囲を見渡しても妻木晩田の人口を支えるほどの平野がありません。
彼らはバイキングのように周囲の農魚民から収奪する事によって生活していたのではないでしょうか。
出雲あたりまで支配できれば別ですが、自ら食料生産をしない集団による収奪は過酷だったと思います。
しかし収奪される農漁民は彼らの周りから逃げ出していき、遠くまで収奪しに出かけなければならなくなり、ついにはかれらの生活を支えられなくなって滅んだと推測しています。
>> そこらへん集中的に議論されてますね。
>> 環濠集落から散村+古墳+豪族居館の形態へ。
「散村+古墳」と言うのが一つのヒントです。
その理由は強い武力をもったバイキングのような部族が弥生集落を襲いムラはちりじりになり、バイキングは支配者として君臨し古墳を築いたと考えるのが妥当です。
銅鐸が壊して廃棄された理由もうまく説明できます。
>> 通常の年代観で三世紀末、山陰には多くの四隅突出型墳丘墓が生まれています。
>> 個々にみても弥生墳丘墓のなかで、同時期最大級のものが多数出ています。
>> この地域、つまり石見から出雲、伯耆、因幡をまとめれば、かなりの勢力でしょう。
四隅突出型墳丘墓をとってみれば妻木晩田では一世紀末位から四隅突出墓を作っている訳です。
四隅突出墓の拡がりが日本海沿岸である事に注意を払うべきです。
北朝鮮で四隅突出墓が見つかっている事を無視して議論は出来ないでしょう。
前方後円墳の起源はともかく、すべて日本発祥と考えるのはおかしいと思います。
甕棺などアジアからインドまでの広がりを持っているのですから。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月19日(月)12時10分55秒 ]
>> でも、ひとつ菜畑の水田を見て気づいたんですが、
>> なんだかあの形だと丘陵や山間部の方が、作りやすそうな、感じがします。
>> 水の確保さえできるのなら、山間部は、兎も角、
>> 丘陵部は、洪水などの心配も少ないのでは?
>> 縄文に人たちが、暮らしていた場所は、ある意味非常に安全な場所でしたよね。
>> だとするなら、その当たりから水田を作る方が自然では?
丘陵上だと水の確保が難しいと思います。
丘陵には環濠集落があります。
菜畑、板付、江辻などの遺跡は丘陵裾の細流に接する所にあります。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 11月19日(月)21時16分17秒 ]
>> >> 丘陵部は、洪水などの心配も少ないのでは?
>> >> 縄文に人たちが、暮らしていた場所は、ある意味非常に安全な場所でしたよね。
>> >> だとするなら、その当たりから水田を作る方が自然では?
>> 丘陵上だと水の確保が難しいと思います。
>> 丘陵には環濠集落があります。
>> 菜畑、板付、江辻などの遺跡は丘陵裾の細流に接する所にあります。
縄文人が、暮らしていた場所の特徴を、お忘れです。
給料の上に住居があり、その少し下に泉、または、小川があることを。
トすると泉やそのそばに、水祭りをする場所があり、
その少し川下に、水田を設けたような、
説明は、そのもの図張りの印象ですが、菜畑のそのように見えまいた。
元の発言 [ Re: Title縄文と弥生と米 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月20日(火)20時19分32秒 ]
>> >> >> 丘陵部は、洪水などの心配も少ないのでは?
>> >> >> 縄文に人たちが、暮らしていた場所は、ある意味非常に安全な場所でしたよね。
>> >> >> だとするなら、その当たりから水田を作る方が自然では?
>> >> 丘陵上だと水の確保が難しいと思います。
>> >> 丘陵には環濠集落があります。
>> >> 菜畑、板付、江辻などの遺跡は丘陵裾の細流に接する所にあります。
>> 縄文人が、暮らしていた場所の特徴を、お忘れです。
>> 給料の上に住居があり、その少し下に泉、または、小川があることを。
>> トすると泉やそのそばに、水祭りをする場所があり、
>> その少し川下に、水田を設けたような、
>> 説明は、そのもの図張りの印象ですが、菜畑のそのように見えまいた。
要するに、丘陵裾部の小川の横に水田を造ったってことにかわりはありませんネ。
それよりも、住居をはじめ農具や鏃(柳葉形磨製石器)、支石墓などがセットで入ってきていることに大きな意味と謎があるんです。
そして、それらは縄文時代に系譜がたどれるものではありません。
邪馬台国所在地論以前にも「古代のロマン」が有ることを知ってもらいたかったんです。
松菊里は韓国で最も古い環濠集落で、当然ながら全ての竪穴式住居が「松菊里形」ですが、より日本に近い環濠集落では違っています。
ところが、福岡県・江辻遺跡の受容期の竪穴住居は全てが「松菊里形」です。
縄文時代にはその地域で取れるあらゆる物を利用した生活を営んでおり、狩猟採集(畑作も行われていた)社会としてはクライマックスに達していた社会だったと思います。
あえて水稲耕作にたよる必要があったのだろうか?
と言うことで、半島からの渡来人は物だけでなく社会体制も持ち込み、縄文人に米を「作らせた」という考えもあります。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月11日(日)01時58分34秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
旅行中でアクセスできない間にスレッドの中に私の名前が出ていましたので、ちょっとひとこと。
私はおにりんさんの描いている戦争像が中世以降のもののように思えます。
初期のクニとクニの戦いにそれほどの組織は必要だったでしょうか。
現在弥生のクニについて、考古学的には小共同体がいくつか階層をなして連合して出来ている描像が提出されています。
私は弥生人は共同体の一員として、強固に結びつけられていたと思います。
このような環境では、その成員には強い共同体規制がかかります。
つまり戦場で恥ずかしい、あるいは卑怯な振る舞いをすると、帰ってから共同体内での立場を失います。
戦場での論功行賞は大変に難しいもので、戦国期でも総大将はこれに腐心し、結局は首のような物的証拠を用いて行うしかありませんでした。
武士の時代以前にも、軍監などを派遣しても、容易に戦場での働きの全貌はつかめません。
ところが共同体規制では、一緒に戦う仲間が細かく見ています。
最近企業ではやりの、周囲の同僚に評価させる方法に近いものです。
しかもこの場合の恩賞は、共同体内での評価ですから、一時的な金銭や土地ではなく、生涯補償つきの名誉と地位です。
それ以後の全人生がかかっています。
ギリシャや初期ローマの重装歩兵なども、このような共同体の成員としての義務と権利のために戦ったのです。
これは軍事的に強い兵士を作るためには、極めて有効で、このためにジェンダーによる区別を行い、一人前の成人男子と認められるには、戦士としての資格を身に付けることを要求する社会が多いのです。
戦場で英雄になれば、女もついてくるとなれば、アドレナリンのでかたも違ってきます。
現代でも強いおのこを育てようとする風土は残っています。
私は弥生人は、自分の属する小さな共同体の中で英雄になるために戦ったのだと思います。
これらの小さな共同体は、小さなリーダー付きの戦闘単位を提供し、よりおおきな共同体は、それら戦闘単位を集めてより大きなリーダー付き戦闘単位を提供します。
クニともなればこれらの戦闘単位が階層状に積みあがり、命令系統はクニの指揮官からその下の戦闘単位のリーダー、さらにその下の戦闘単位のリーダーへと伝わります。
大きな論功行賞は大共同体単位でおこない、以下小さいほうへ各共同体内で行います。
一般の戦士は、自分の全人生をくるみこむ小さな共同体内で評価を受けます。
おそらくよほどのことがなければ、武器食料自弁で、戦士として戦えることは誇りで、それだけでも一つの地位であったのではないかと思います。
したがっていわゆる最下層は、戦争による生口などで、戦士と成ることはなかったのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
したがって夜盗の戦いとは大分違ったものになる。
祭祀てきリーダーの指示により、共同体の一員として誇りをもった、経済的にも最下層よりは上の成員が、階層構造的戦闘集団をなして戦う。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
集落のなかで、最下層民はしばしば周辺からつれてこられた生口だったりするわけで、戦争になっても戦わなかったか、ろくな戦力にはならなかったのではないでしょうか。
そのような構造がはっきりしてきたのが弥生後期ではなかったかと思うのです。
したがって隣のクニの周辺集落に、クニのレベルで攻め寄せた場合には、戦力比は簡単に攻勢三倍の原則を満たし、集落は敗れてしまうでしょう。
そこで隣のクニもだまって見ておられず、クニのレベルでの戦闘集団を派遣した場合、戦国時代の後詰決戦のような合戦が生じたでしょう。
だまってみていたなら、周辺から順順に浸潤してゆけばいいわけですし、だまって見ているような拠点集落にはついてゆけないと、集落が寝返ってくるかもしれません。
このあたりは現象として戦国期と並行するかも知れません。
ただし戦国期とちがって、戦争を生業とする階層がいるわけではありません。
最下層ではありませんが、共同体の一員として生産活動も行っていた人々です。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月14日(水)00時28分02秒 ]
>>
>>
>>
#大統領自身が「私の名前はRayGun=光線銃と読んでくれ」と言ったはずです。
SF映画にでも出演したことがあるんでしょうか。
朝日新聞:
****************************************************************
倭人伝斯馬国の拠点? 福岡・志摩町の遺跡
福岡県志摩町教委は21日、同町小金丸の一の町遺跡で、弥生時代中期後半(約2000年
前)の同時代最大級の大型建物3棟を含む大規模な集落跡が見つかった、と発表した。玄界灘に
面する大陸との対外交渉の最前線にあたり、「魏志倭人伝」などに記述がある「斯馬(しま)
国」の拠点との見方が出ている。
遺跡は当時の海岸線近くに位置し、弥生中期前半から後期前半にわたる掘っ立て柱建物跡十数
棟や直線に並ぶ柵(さく)列、貯蔵穴などが見つかった。集落中央では約50平方メートルのほ
ぼ正方形の大型建物2棟と、長方形の1棟がまとまって出土。このうち1棟は、合計22本の柱
穴がいずれも1メートル以上でその中に30センチ程度の柱の痕跡も残っていた。中央部には床
を支える棟持柱の穴もあった。同時に見つかった土器などから、3棟とも中期後半とみられる。
同町教委によると、大型建物が密集して発見されるのは全国的に珍しく、「祭りあるいは外交
施設など特殊な役割を持った建物ではないか」とみている。
大型建物付近からは中国製の「方格規矩(きく)四神鏡」の破片や石でできた剣の柄(つか)飾りのほか、ガラスや碧玉(へきぎ
ょく)製の管玉が見つかり、有力な首長の存在を示すという。
魏志倭人伝では邪馬台国の地理的な位置の説明の後、「次に斯馬国あり」と記されている。
周辺には豪華な副葬品で有名な「伊都国王墓」の三雲南小路遺跡がある。(00:27)
****************************************************************
どうかなーこれ。
ちょっと位置関係が・・・
元の発言 [ Re: なんじゃこりゃ ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月8日(木)23時42分39秒 ]
>> 「蟹」の名で呼ばれている辺りは,石器派ふうと言うか,
>> なんとなく天邪鬼を思わせもするし,
牛蟹ですが、鬼の形容として、牛蜘蛛というのがあります。(角があって体は毛むくじゃら?)
ところでこの蜘蛛の名前がでてくる鬼は海辺に多く、蜘蛛ではなく蟹のこととする説もあるそうです。
牛蟹というと、針間の牛鹿臣も思い出します。
これも孝霊の子供を祖先とします。
>> この孝霊伝承は,仏教説話ふうの潤色あり。
この伝説の成立は平安期初期でしょうか。
>> 「笹」で追い払う,という辺りは,
>> 天鈿女が振った小竹葉(ささば)を連想させますが,
>> 紀氏と言えば家紋は「九枚笹」とのことです。
>> 紀氏絡みで,「投馬の忌部」なる謎の地名が,
>> 和歌山にあるというし,
>> 紀氏の謎2
>> http://homepage1.nifty.com/moritaya/kisi2.html
紀氏はどう絡んでいるのでしょう。
>> 鶯王と聞くと,声が良さそうですが,
>> 玉,鐸,出雲の土笛(?)などと関連するのか,とか。
どうも平安初期ぐらいまでは、梅に鶯ではなく、竹に鶯らしいです。
笹と竹はしばしば混同されますから、そのあたりから出てきたのかな?
竹取ものがたりのかぐや姫も、鶯姫の伝説があるようです。
同じ時期に成立したのかな?
歯黒皇子だの新之森王子だの平安ぽい?
>> >> 孝霊天皇は「御丈七尺、御面躰青く、
>> >> 面頭には三尺の角あり。飛行自在の天皇なり」。
>>
>> こっちのほうが鬼みたいな形象ですね,,,(^◇^)
>> 仏像というか鬼神というか役小角というか,そんな印象。
役小角かそのあたりの時代かな?
とするともちょっと古い。
いづれにせよ原型になるはなしが有ったのかどうか。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月22日(木)17時07分20秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
どうも社会構造と軍事的組織はお互いに規制しあう関係にあるように思います。
したがって弥生時代の想定される共同体間の構造、階層は似たような軍事組織を意味するかもしれない。
>> 初期のクニとクニの戦いにそれほどの組織は必要だったでしょうか。
>>
>>
>>
後期も終わりに近づくと、かなり大きな墳丘墓が出来てくる。
これは相当な組織力を意味するように思うのですが。
>> 現在弥生のクニについて、考古学的には小共同体がいくつか階層をなして連合して出来ている描像が提出されています。
>> 私は弥生人は共同体の一員として、強固に結びつけられていたと思います。
>> このような環境では、その成員には強い共同体規制がかかります。
>>
>>
>>
>>
>>
上下関係は想定される共同体間の上下関係がそのまま生きるのではないでしょうか。
>> つまり戦場で恥ずかしい、あるいは卑怯な振る舞いをすると、帰ってから共同体内での立場を失います。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ありますね。
この場合もクニのレベルの指揮官が、各大共同体レベルのリーダーに指示することで可能と思います。
>> しかもこの場合の恩賞は、共同体内での評価ですから、一時的な金銭や土地ではなく、生涯補償つきの名誉と地位です。
>> それ以後の全人生がかかっています。
>>
>>
>>
>>
>> ギリシャや初期ローマの重装歩兵なども、このような共同体の成員としての義務と権利のために戦ったのです。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
重装歩兵自体はペルシャ戦争以前からあります。
おそらくポリス社会の中での攻防もあったでしょう。
交易など様々な理由で、ギリシャ人は盛んに他のポリスを襲ったようです。
重装歩兵以前ですがトロイ戦争の話もあります。
後期社会の高地性の拠点集落など、古典古代以前の地中海世界を思わせる部分があります。
特に瀬戸内は地勢も似ていなくはない。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
場所によって違うでしょうが、弥生中期ぐらいまではそうかも知れない。
しかし集落の形態が変わり、東西交易の目立ってくる後期社会では違うのではないでしょうか。
ひとつには中期までの成長により、クニの支配階級がかなり成長してきた。
支配階級は交易によって自分たちの威信財を手に入れる自発的な動機が現われる。
地中海世界でも古くは交易はほとんど支配階級の要求を満たすためのもので、これにより支配階級は多くの富を手に入れ、支配を確実にした。
また瀬戸内や山陰では後期には鉄の流入も始まるようですから、これも支配階級にとって、自分の支配を左右する意味があるでしょう。
こうなってくると一つの水系や平野を越えて、一般人の生活リソースを超えて戦争の動機があります。
各共同体にとっては、上位共同体の意向に沿うことで、自分たちを保ち向上させることが出来ます。
各共同体の首長にとっては、充分に戦争の理由はあるわけで、共同体の成員には共同体内での地位が参加の動機になる。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
中期まではそうかも知れません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
上述しました。
交易路を開く、より大きな交易上の利権を目指す。
などでしょう。
この直後に西日本全体にわたる政権ができるとしたら、その前段としてこのようなプロセスがなければおかしいです。
>> 私は弥生人は、自分の属する小さな共同体の中で英雄になるために戦ったのだと思います。
>> これらの小さな共同体は、小さなリーダー付きの戦闘単位を提供し、よりおおきな共同体は、それら戦闘単位を集めてより大きなリーダー付き戦闘単位を提供します。
>> クニともなればこれらの戦闘単位が階層状に積みあがり、命令系統はクニの指揮官からその下の戦闘単位のリーダー、さらにその下の戦闘単位のリーダーへと伝わります。
>> 大きな論功行賞は大共同体単位でおこない、以下小さいほうへ各共同体内で行います。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ここで近代と古代の形式上の類似があると思います。
中世の戦闘はもう少し性質が悪い。
それは個々人と言うものがもう少し出来てくるからだと思います。
古代においては共同体の一員であって、そこから外れては全く活きてゆけない。
組織としての統率力は、組織の力と、その下で動く個人の意識、独立心のバランスで決まると思います。
したがって後世の人間を同じ組織形態で動かそうとするとばらばらになってしまうかもしれない。
おそらく戦闘形態も二手に分かれてとか、弓手と突入部隊に分かれてとかはあるでしょうが、あんまり込み入ったことは出来ないでしょう。
各共同体の意向も尊重する必要があるし。
>> したがって夜盗の戦いとは大分違ったものになる。
>> 祭祀てきリーダーの指示により、共同体の一員として誇りをもった、経済的にも最下層よりは上の成員が、階層構造的戦闘集団をなして戦う。
>>
>>
双方が相撲で決着するというルールを持っていたらそうなるでしょう。
でも相撲で納得できなければ総力戦になる。
ルールに基づく戦闘は、支配者同士が勢力争いをする場合には極めて有効でしょう。
しかし古代の戦闘は共同体の命運をかけたしばしば皆殺し戦になる。
>> 集落のなかで、最下層民はしばしば周辺からつれてこられた生口だったりするわけで、戦争になっても戦わなかったか、ろくな戦力にはならなかったのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
もしも人口の再生産を認めるら、農奴性に近くなります。
おそらくはそうでしょう。
後期には墓域の形成ではっきり差が認められるケースもあるようです。
>>
>>
文献には生口も現われるので、一般共同体構成員よりも地位の低い人々もいたと思います。
>> そのような構造がはっきりしてきたのが弥生後期ではなかったかと思うのです。
>>
>>
農業の形態がオリーブ生産などではなく、水田稲作ですからから奴隷制ではないと思います。
奴隷制は生産性が低いですが、農業の形態が粗放で、奴隷の供給が潤沢なら可能性はありえます。
倭国の農業が水田稲作ではなく、後期社会のような社会が継続すれば、奴隷制の成立はありえたでしょう。
弥生後期の社会は、突然の激変に見舞われなければ、次第に山上の都市を発展させ、世界の他地域で見られるような成長を遂げたかも知れないと思います。
ただ何か突然、世界史上例を見ないような出来事が起こって、集落が武装解除されてしまった。
以後類例を見ない城壁のない都市などが次々に登場することになった。
そう思っていますが。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月18日(日)13時55分05秒 ]
>> >> 時代には、あまり関係有りませんね。
>> >> 近代に入るまで、武器は恒に不足したと見るべきなのです。
>> 近代に入るまでというのは、大げさではありませんか?
>> 戦国時代になると、長船から毎日昼夜の別なく駄馬で刀を発送していたといいます
>> し、85年間で約百十三万八千本の刀が明に輸出されたという試算があります。
>> 秀吉の時代になっても、日本の兵力は約五十万〜六十万ですから、全ての兵士
>> に持たせても余りあるだけの武器があったという事になります。
答えが、遅くなり失礼しました。
色々手もとの資料を見て答えかたを考えていたので遅れました
5,60万として、刀と鑓の必要数を、どれくらいと考えておられるのかわかりませんが、
其のほかに、ほとんどの農民や僧侶に至るまで武装していた事を、お忘れないように願います。
オオニンの乱のあたりの記録に、薙刀持たぬ尼は、無しとの記録があるようですね。
其れほど治安が悪かった。
ほとんどの、人達は何らかの武器で自衛していたと考えた方が良いでしょう。
当時の総人口を推定するとどのくらいに成りましょうか。
2000万程度?は、多過ぎますか?
デ其の内半分は、武装してもおかしくない。
そして、一人に一つでは、すまないのが武器と言うものでしょう。
戦をするなら用意するのは、3本は、最低では、ないでしょうか、ですが、一般の兵士は、刀1つが、せいぜいでしょう。
当然、主は,不足分を用意する義務が生じたでしょうし。
織田 信長の家臣の記録にも貸してある武具を売り払い、ひまを出されている記録が多々あるようですね。
つまり、武具が高価で不足してたからでしょう。
また輸出の件ですけど、この時代、南蛮鉄と呼ばれる。輸入された鉄で、
武具や刀が作られるように成ってきています。
聞くに、一分の例外を除いて輸出されたのは、低質の数打ち物だと聞きました。
そんな、輸入品を使い打ったものでしょう。
本物は、少なかったはずです。
そして、数打ちは、戦の役には立たないというのが一般的評価です。
折れ易かったのでしょう。
これ蛇足ですが、何かで読んだ事を一つ
「刀鍛冶に、戦場で刀が曲がったと文句ゐ言いに来る侍は居るが、
折れたといってくる侍は居ない」とつまり戦場で折れては生き残れないと言う事でしょうね。
ホンとに生き残ろうとするなら、なにか、頼れる武器が必要だったでしょうね。
本物は恒に不足していたと見るべきでしょうね。
塚原 ト伝の道歌を読んだ事が有ります。
曰「切れるとて、けして持つなよ、新刀は、持てば必ず、不覚ぞありける。」
いかがでしょうか?
元の発言 [ ありました! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月2日(金)14時47分30秒 ]
>> 日本の歴史地名体系32によると
>> 妻木村
>> 「伯耆民談記」にも類似の記述がある。正保国絵図には六木村とみえる。
これも「むきむら」と読むらしい。
とすると,「むき」という言葉に何か,
本来的な意味がありそう。
貝塚とかはないんでしょうか? >剥き身,,,(^^;
>> ちょっと遠いですが、大山北東(東伯)の日本海岸には妻波「つまなみ」の地名もあります。
>> ふるい地名があって、それに漢字表記が古く確立し、その別読みが地名として広まった
>> ケースは他にもいくつかあり、妻木が本来「つまき」であった可能性は捨てがたいです。
感触としては,「つまき」とは一時のブームか,との疑問も。
また,「つま」の付く地名は,ほうぼうにあるし・・・(^◇^)
元の発言 [ 世有王、皆統属女王国 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 11月19日(月)17時09分47秒 ]
>> 「世有王、皆統属女王国」とは、卑弥呼共立以前の歴代の伊都国王(委奴国王)が、今は卑弥呼の支配する女王国を統属していたということである。
「其南有狗奴国,男子為王,其官有狗古智卑狗,<不属>女王」
については,どうでしょう。
魏略逸文に,伊都国について,
「其国王<皆属>女王也」とある点については?
以下,東夷伝の用例の一部です。
「夫余本属玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫余王尉仇台更属遼東」(扶余)
「漢時属楽浪郡,四時朝謁」(韓)
「旧民稍出,是後倭韓遂属帯方」(韓)
「其十二国属辰王」(韓)
このように見ると,基本的には,
「伊都国王は代々,女王国に貢いでいる」みたいな意味かな・・・。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月22日(木)21時35分44秒 ]
>> >> 近代に入るまでというのは、大げさではありませんか?
>> >> 戦国時代になると、長船から毎日昼夜の別なく駄馬で刀を発送していたといいます
>> >> し、85年間で約百十三万八千本の刀が明に輸出されたという試算があります。
>> >> 秀吉の時代になっても、日本の兵力は約五十万〜六十万ですから、全ての兵士
>> >> に持たせても余りあるだけの武器があったという事になります。
>> 答えが、遅くなり失礼しました。
>> 色々手もとの資料を見て答えかたを考えていたので遅れました
わざわざ調べていただいて、ありがとうございます。
>> 5,60万として、刀と鑓の必要数を、どれくらいと考えておられるのかわかりませんが、
>> 其のほかに、ほとんどの農民や僧侶に至るまで武装していた事を、お忘れないように願います。
>> オオニンの乱のあたりの記録に、薙刀持たぬ尼は、無しとの記録があるようですね。
>> 其れほど治安が悪かった。
>> ほとんどの、人達は何らかの武器で自衛していたと考えた方が良いでしょう。
>> 当時の総人口を推定するとどのくらいに成りましょうか。
>> 2000万程度?は、多過ぎますか?
>> デ其の内半分は、武装してもおかしくない。
>> そして、一人に一つでは、すまないのが武器と言うものでしょう。
>> 戦をするなら用意するのは、3本は、最低では、ないでしょうか、ですが、一般の兵士は、刀1つが、せいぜいでしょう。
>> 当然、主は,不足分を用意する義務が生じたでしょうし。
3本というのはよく分かりません。
普通腰に差すのは、2本じゃないですか?
>> 織田 信長の家臣の記録にも貸してある武具を売り払い、ひまを出されている記録が多々あるようですね。
>> つまり、武具が高価で不足してたからでしょう。
>> また輸出の件ですけど、この時代、南蛮鉄と呼ばれる。輸入された鉄で、
>> 武具や刀が作られるように成ってきています。
>> 聞くに、一分の例外を除いて輸出されたのは、低質の数打ち物だと聞きました。
>> そんな、輸入品を使い打ったものでしょう。
>> 本物は、少なかったはずです。
偽物とは言えないと思いますが。
>> そして、数打ちは、戦の役には立たないというのが一般的評価です。
>> 折れ易かったのでしょう。
数打が役に立たないというのはどうでしょうか?
役に立たないのなら、戦乱の時代に製作する意味がありませんし、折れやすいとい
う話も聞いた事がないです。
江戸中期の頃の新刀は、折れやすいという話はありますが。まあ、江戸中期とい
っても色々な刀がありますから一概には言えませんが。
また数打は、万人向きの頃合の姿形になっています。それに対して注文打ちは、
依頼者の好みに合わせて作っていますから、一般の兵士は数打を使っていたので
しょう。
>> これ蛇足ですが、何かで読んだ事を一つ
>> 「刀鍛冶に、戦場で刀が曲がったと文句ゐ言いに来る侍は居るが、
>> 折れたといってくる侍は居ない」とつまり戦場で折れては生き残れないと言う事でしょうね。
>> ホンとに生き残ろうとするなら、なにか、頼れる武器が必要だったでしょうね。
>> 本物は恒に不足していたと見るべきでしょうね。
一部の刀以外は駄目という事であれば、現代も武器は不足してますね。
軍用の銃でも、種類によっては壊れやすい物があるようですし、壊れ難い銃でも壊
れる時は壊れるでしょう。それに一部の先進国以外では、旧式の武器を使ってます
からね。
>> 塚原 ト伝の道歌を読んだ事が有ります。
>> 曰「切れるとて、けして持つなよ、新刀は、持てば必ず、不覚ぞありける。」
>> いかがでしょうか?
その歌は本当にト伝の歌でしょうか?
新刀というのは、江戸時代になってから使われるようになった言葉で、ト伝の時代
に新刀という言葉はないはずです。
また、新刀というのは慶長以降の刀の事であり、ト伝は慶長以前の人ですから、そ
の歌は後世の創作ではないでしょうか。
そういえば、加藤清正が刀工の一派である同田貫派を朝鮮に従軍させて、作刀さ
せたという話があります。これ以前にも、誰だったか忘れましたが、長船派の刀工
が陣中で作刀したという話もありますし、末相州派は後北条氏の御用鍛冶でしたか
ら十分武器はあったと考えて良いのではないでしょうか?
数打というのは要するに実用刀という事ですし。
辿りづらくなったので先頭にします。
元の発言[ ピクポポデミ@プサン ]
>> ところでこの蜘蛛の名前がでてくる鬼は海辺に多く、
>> 蜘蛛ではなく蟹のこととする説もあるそうです。
なんと。
蟹とか蜘蛛とかは,よく見ると足が長いわけで,
ナガスネヒコ→すねが長い人,という見方と,
言語遊戯ふうの水準では通じる感じもします。
あるいは,ナガスネヒコ→中州生まれの人,
という見方をしても,御指摘の点と,
古代大和の入り江の線で,なんとなく通じるような。
>> この伝説の成立は平安期初期でしょうか。
平安中期以降の作り話っぽいですが,調査続行。
時期としての平安前期というと,
伯耆に近い籠神社に「真井御前」の伝説があり,
天皇に見初められる,という点で,似ています。
元伊勢籠神社なのに仏教系。
籠神社/真井御前のお話
http://www.dance.ne.jp/~h2/special-1/motoise/konojinjya.htm
あの辺りは,美女が多かったらしい。
秦氏がらみか? などの,
単に裕福でオシャレな文明人の子女,
という線も考えられるけど。
>> 紀氏はどう絡んでいるのでしょう。
実は,よく知らないのですが,邪馬台国東遷説の線で,
東遷組の重要氏族で渡来系,という説があるようです。
中国の妃氏と合わせる説もあるみたいで。
どのみち,孝霊系譜〜紀氏譜記で,
大和,紀伊,吉備,伯耆(妻木晩田),
倭迹迹日百襲姫命,
という辺りを網羅する関心のわけでしょう?
>> 笹と竹はしばしば混同されますから、
>> そのあたりから出てきたのかな?
>> 竹取ものがたりのかぐや姫も、
>> 鶯姫の伝説があるようです。
笹や竹はタタラがらみで説がありますが,
古代,笹を使った神法道術があったと仮定できるので,
孝霊天皇や紀氏は,そういう「魔法使い」であった,
という視点から導くことができる話でしょう。
でなくとも,漁具とすれば蟹なんかも獲るだろうし。
サイトで調べ直して勉強になりました。
「うぐひすの陵」という前方後円墳が奈良にあるそうです。
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黄鳥墳説話の諸相/高木元(愛知県立大学助教授)
http://member.nifty.ne.jp/~tgen/paper/uguisu.htm
鶯をめぐる伝承の記憶として「鶯塚」と呼ばれる遺跡が各地
に残されている。おそらく一番有名なのは「鶯塚古墳」であ
ろう。奈良市春日野町若草山山頂にある前方後円墳のことで、
東大寺の僧康訓が享保十八年に建てた「清少納言が『枕草子』
にうぐひすの陵と記しているのはこの古墳である」と書かれた
碑が後円上部にあり、中腹には「鶯の滝」があるという。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
というわけで,重要な研究項目であるらしく,
うかつなことは言えなくなりました。(^◇^)
古墳がらみときては,皆さん,焦って下さい。
>> 同じ時期に成立したのかな?
>> 歯黒皇子だの新之森王子だの平安ぽい?
作り話ふうだという点で平安中期以降とは思いますが,
素材の時代背景としては,
記紀成立・漢風諡号制定以降と考えられ,
大和国黒田庄から楽々福大明神を勧請したのが,
弘仁十二年(821)とありますから,
天平〜平安前期あたり。
この点では,真井御前が生きていたのと同じ頃です。
しかし,行基の件では,
白鳳以前からあった伝承だということになります。
なんとなく『先代旧事本紀』ふうかもしれないので,
それであれば,平安前期頃か。
ただし,ホラ話かもしれません。補強するには,
黒田郷とか吉備とか,鶯塚とか,『先代旧事本紀』とか,
けっこう楽しめそうではあります。
分からんので調査続行。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月23日(金)22時43分27秒 ]
>> >> >> >> に持たせても余りあるだけの武器があったという事になります。
>> >> 其のほかに、ほとんどの農民や僧侶に至るまで武装していた事を、お忘れないように願います。
>> >> オオニンの乱のあたりの記録に、薙刀持たぬ尼は、無しとの記録があるようですね。
>> >> 其れほど治安が悪かった。
>> >> ほとんどの、人達は何らかの武器で自衛していたと考えた方が良いでしょう。
>> >> そして、一人に一つでは、すまないのが武器と言うものでしょう。
>> >> 戦をするなら用意するのは、3本は、最低では、ないでしょうか、ですが、一般の兵士は、刀1つが、せいぜいでしょう。
>> >> 当然、主は,不足分を用意する義務が生じたでしょうし。
>> 3本というのはよく分かりません。
>> 普通腰に差すのは、2本じゃないですか?
普通なら、正確に言うならば、太刀または、打刀と脇差の二本と言う事ですね。
ですが、普段も、短刀か鎧通と呼ばれる細身の短刀を携帯するのが、武士のたしなみと聞いています。
そして、普通、戦場では、必ず組み打ち用の短刀を持っているのです。
そうだとすると、普通の武士は、鑓または大太刀に打刀脇差そして短刀という装備です。
雑兵と呼ばれる人達でも、鑓持ち、太刀持ちは同じ装備だったでしょうね。
そして主に使われるのは、鑓と太刀、刀この三つが特に消耗品でしょう。そして短刀と言う事になりますか。
使うと言う事は、壊れる事を意味しますから、必ず控えが必要です。
この説明で、おわかりりいただけたと思います。
>> >> また輸出の件ですけど、この時代、南蛮鉄と呼ばれる。輸入された鉄で、
>> >> 武具や刀が作られるように成ってきています。
>> >> そんな、輸入品を使い打ったものでしょう。
>> >> 本物は、少なかったはずです。
>> 偽物とは言えないと思いますが。
確かに偽者とは、言えませんが、・・・・
今の手打ちの包丁、ほど手をかけているかどうか。
>> >> そして、数打ちは、戦の役には立たないというのが一般的評価です。
>> >> 折れ易かったのでしょう。
>> 数打が役に立たないというのはどうでしょうか?
>> 役に立たないのなら、戦乱の時代に製作する意味がありませんし、折れやすいとい
>> う話も聞いた事がないです。
>> また数打は、万人向きの頃合の姿形になっています。それに対して注文打ちは、
>> 依頼者の好みに合わせて作っていますから、一般の兵士は数打を使っていたので
>> しょう。
数打と言っても、せめて現在の手打ちの包丁ほどの手間はかけてあるものでしょう。
オーダーメードほどの室は、無くてもレディーメイドクラスだったでしょうね。
>> >> これ蛇足ですが、何かで読んだ事を一つ
>> >> 「刀鍛冶に、戦場で刀が曲がったと文句ゐ言いに来る侍は居るが、
>> >> 折れたといってくる侍は居ない」とつまり戦場で折れては生き残れないと言う事でしょうね。
>> >> 塚原 ト伝の道歌を読んだ事が有ります。
>> >> 曰「切れるとて、けして持つなよ、新刀は、持てば必ず、不覚ぞありける。」
>> その歌は本当にト伝の歌でしょうか?
>> 新刀というのは、江戸時代になってから使われるようになった言葉で、ト伝の時代
>> に新刀という言葉はないはずです。
>> また、新刀というのは慶長以降の刀の事であり、ト伝は慶長以前の人ですから、そ
>> の歌は後世の創作ではないでしょうか。
>> そういえば、加藤清正が刀工の一派である同田貫派を朝鮮に従軍させて、作刀さ
>> せたという話があります。これ以前にも、誰だったか忘れましたが、長船派の刀工
>> が陣中で作刀したという話もありますし、末相州派は後北条氏の御用鍛冶でしたか
>> ら十分武器はあったと考えて良いのではないでしょうか?
>> 数打というのは要するに実用刀という事ですし。
これは、新しい刀新しく打った刀は、信頼生が無いから使うな、の意でしょう。
まだ、其れほど、戦の多くない時期に打たれた刀は、丁寧に作られているでしょう。
其の上、戦が多くなっても残っているものは、
非常に丈夫な、刀と言えると思います。(寿命が来ているかもしれませんが(笑い)、
この賭けは、非常に割の良い賭けだと思います。)
つまり其れだけ、質が落ちていた事も事実なのでしょうね。
確かに、圧重ねの実用刀だったでしょう。
でも、殆、消耗品と割り切って使われたのでは、無いでしょうか。
ご記入の、加藤家の刀なんかは、特にレディーメイドの最たるブランド品だと思いますけど(笑い)。
元の発言 [ Re: 世有王、皆統属女王国 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月22日(木)23時09分03秒 ]
>> >> 「世有王、皆統属女王国」とは、卑弥呼共立以前の歴代の伊都国王(委奴国王)が、今は卑弥呼の支配する女王国を統属していたということである。
>> 「其南有狗奴国,男子為王,其官有狗古智卑狗,<不属>女王」 については,どうでしょう。
<不属>については言及しているつもりですが、、、
それとも伊都国王は狗奴国王も支配していたのか、と言うご質問でしたら、答えは"ノー”です。
>> 魏略逸文に,伊都国について,
>> 「其国王<皆属>女王也」とある点については?
魏略は「其国王<皆属>王女也」ではなかったですか。
>> このように見ると,基本的には,
>> 「伊都国王は代々,女王国に貢いでいる」みたいな意味かな・・・。
意味って、「属」のですか?
元の発言 [ Re: 世有王、皆統属女王国 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 11月24日(土)15時52分27秒 ]
>> 意味って、「属」のですか?
取り急ぎです・・・詳しくは機会があればまた。
古田氏といわれても,岩波版の現代語訳でも,
「世々王がいるが,みな女王国に統属する」
となっています。
それで,この線からは,
魏略逸文から思いつくこと言われていることで,
女王とは伊都国の女性祭祀権者である。
伊都国の王権は同国周辺の女性祭祀権者に従っている。
伊都国を中心とする倭人国家があった。
# 考古学的には平原遺跡に女王級の墓がある。
# 伊都国と畿内(三輪山と伊勢)を結ぶ点と線が
# あるかどうか。
というような見方もできると思うので,
委奴国を伊都国とする見方もできるでしょうけど,
しかし,委奴国は「倭の奴の国」との説が有力なのでは?
とはいえ御指摘の説に鋭い魅力も感じまして,
「共立」というのは,
伊都国王の後ろ盾で擁立された,という含みですか。
その逆に,女王の統率権を失った,ということですか。
伊都国王が邪馬台にねじ込んだ,という含みですか。
その逆に,女王に独立されて牛耳られた,
ということですか。
それぞれ後者の立場のように読めますが,
いずれにしろ,こういう線で考えるなら,
それなりに一貫性があるように思います。
あるいは,
狗奴国は「女王之南」「不属女王也」とあるので,
女王のいた所は,伊都国とは少し別かもしれない。
この場合,
「其国王皆属女王也」(岩波版魏略)としかないから,
伊都国王は「女王」に従う意味のようであり,
(1)伊都国以上の広域の権力が想定される。
(2)女王とは奴国王の誤りである。
伊都国の王権は奴国王に従っていた。
奴国を中心とする倭人国家があった。
倭奴国から直接,倭国王帥升へ発展か。
(3)女王とは奴国の女性祭祀権者の誤りである。
伊都国の王権は奴国の女性祭祀権者に従っていた。
奴国を中心とする倭人国家を女国とする。
倭奴国から畿内大和(邪馬台)へ東遷か。
(4)周辺各国の血縁・地縁などはどうか。
(5)記紀にいう「高天原」という語に,
個々の国々の範疇を超える超国家性,
または,
山間に「やまと」なる神聖空間の共有がなかったか。
とかなんとかのいろんな議論でしょう。
(4)については,
九州では,日田とか八女とか,話題になっています。
陳寿のは,
3世紀末の倭国情報が混入しているかもしれない,
ってやつで,
九州説の人も頑張って下さい。
元の発言 [ Re なんじゃこりゃ 元の発言[ ピクポポデミ] ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月23日(金)23時40分45秒 ]
>> >> この伝説の成立は平安期初期でしょうか。
>>
>> 平安中期以降の作り話っぽいですが,調査続行。
どうも武家社会の匂いは感じないので、平安期と思っているのですが。
>> >> 笹と竹はしばしば混同されますから、
>> >> そのあたりから出てきたのかな?
>> >> 竹取ものがたりのかぐや姫も、
>> >> 鶯姫の伝説があるようです。
>>
>> 笹や竹はタタラがらみで説がありますが,
>> 古代,笹を使った神法道術があったと仮定できるので,
>> 孝霊天皇や紀氏は,そういう「魔法使い」であった,
>> という視点から導くことができる話でしょう。
鶯は通常竹やぶや笹やぶにいるもののようです。
また繁殖期以外では、笹鳴きと呼ばれる鳴き方をするそうです。
笹と鶯は思いのほか近いようです。
後世になるほど梅に鶯のイメージが強くなるようです。
>> でなくとも,漁具とすれば蟹なんかも獲るだろうし。
>>
>> サイトで調べ直して勉強になりました。
>> 「うぐひすの陵」という前方後円墳が奈良にあるそうです。
>> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>> 黄鳥墳説話の諸相/高木元(愛知県立大学助教授)
>> http://member.nifty.ne.jp/~tgen/paper/uguisu.htm
>> 鶯をめぐる伝承の記憶として「鶯塚」と呼ばれる遺跡が各地
>> に残されている。おそらく一番有名なのは「鶯塚古墳」であ
>> ろう。奈良市春日野町若草山山頂にある前方後円墳のことで、
>> 東大寺の僧康訓が享保十八年に建てた「清少納言が『枕草子』
>> にうぐひすの陵と記しているのはこの古墳である」と書かれた
>> 碑が後円上部にあり、中腹には「鶯の滝」があるという。
>> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>>
>> というわけで,重要な研究項目であるらしく,
>> うかつなことは言えなくなりました。(^◇^)
>> 古墳がらみときては,皆さん,焦って下さい。
4世紀末から5世紀初の古墳となっていました。
詳細は知りません。
>> >> 同じ時期に成立したのかな?
>> >> 歯黒皇子だの新之森王子だの平安ぽい?
>>
>> 作り話ふうだという点で平安中期以降とは思いますが,
>> 素材の時代背景としては,
>> 記紀成立・漢風諡号制定以降と考えられ,
>> 大和国黒田庄から楽々福大明神を勧請したのが,
>> 弘仁十二年(821)とありますから,
>> 天平〜平安前期あたり。
>> この点では,真井御前が生きていたのと同じ頃です。
>> しかし,行基の件では,
>> 白鳳以前からあった伝承だということになります。
>> なんとなく『先代旧事本紀』ふうかもしれないので,
>> それであれば,平安前期頃か。
>> ただし,ホラ話かもしれません。補強するには,
>> 黒田郷とか吉備とか,鶯塚とか,『先代旧事本紀』とか,
>> けっこう楽しめそうではあります。
妻来の仮名使いから奈良朝はありえないでしょね。
でも武士はでてこない。
>> 分からんので調査続行。
平安期に妻木が”つまき”であったのならそれだけでも収穫ですが。
和名抄も平安初期ですから、そこからそう下らない時期に”つまき”であった可能性は充分ある。
このことの意味は大きい。
また伝説にいろいろ登場することからみて、現在思うほど小さな地名ではないようです。
ただ江戸時代(正保年間)には六木"むき"に成っていることも間違いない。
まあこれ以上はあまり出てこないかもしれない。
元の発言 [ Re: 世有王、皆統属女王国 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月24日(土)22時13分32秒 ]
>> (4)については,
>> 九州では,日田とか八女とか,話題になっています。
訂正です。
(4)については →(4)〜(5)については
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ バ頭鬼 ] 日付 [ 11月24日(土)07時08分09秒 ]
>> 普通なら、正確に言うならば、太刀または、打刀と脇差の二本と言う事ですね。
>> ですが、普段も、短刀か鎧通と呼ばれる細身の短刀を携帯するのが、武士のたしなみと聞いています。
>> そして、普通、戦場では、必ず組み打ち用の短刀を持っているのです。
>> そうだとすると、普通の武士は、鑓または大太刀に打刀脇差そして短刀という装備です。
>> 雑兵と呼ばれる人達でも、鑓持ち、太刀持ちは同じ装備だったでしょうね。
>> そして主に使われるのは、鑓と太刀、刀この三つが特に消耗品でしょう。そして短刀と言う事になりますか。
>> 使うと言う事は、壊れる事を意味しますから、必ず控えが必要です。
>> この説明で、おわかりりいただけたと思います。
大刀と脇差の二本差の習慣は、室町時代からですね。
脇差が製作されるようになるのは、室町時代からですから。
それ以前は太刀と短刀の二本差、室町からは大刀(太刀もまだ実用品だった?)、
脇差の二本差でしょう。江戸時代になると、大刀、脇差の二本差が完全に定着しま
す。
問題は戦国時代ですね。
時代の変わり目ですから、大刀、脇差の二本差、大刀、短刀の二本差、三本持つ
人など、色々いたのではないかと思います。
江戸時代になっても、武術の流派によっては脇差より短刀の方が良い場合もあり
ましたから、脇差、短刀などの小型の武器は、個人の好みが反映されやすかった
のではないでしょうか?
>> 数打と言っても、せめて現在の手打ちの包丁ほどの手間はかけてあるものでしょう。
>> オーダーメードほどの室は、無くてもレディーメイドクラスだったでしょうね。
基本的な製作方法は、数打も注文打も同じですから、手間はかかっていると思いま
すよ。ただ、数打は刀工本人ではなく弟子が作っている可能性が高いです。
注文打の場合は刀工本人が丹精こめて作るか、高弟に手伝わせるか、数は少ない
と思いますが、他の刀工と合作するかでしょう。そういう刀はちゃんと銘を切ってあり
ます。
数打だと無銘になっています。無銘の刀が必ずしも数打とは言えませんが。
例えば祐定の無銘だと、祐定本人の作ではなく、祐定工房製という意味ではないか
と。勿論、祐定本人の作がまったく含まれていないかどうかは分かりませんが。
因みに、戦国時代に駄馬で刀を運んだと書きましたが、普通に運んだのではなく、
刀工の町である長船は武装していたらしくて、長船軍のような人達が運んでいたら
しいです。誰だったか忘れましたが長船の刀工の中には、刀工をやめて毛利軍の
隊長になった人もいたそうですから、かなりの力を持っていたのでしょう。
この時代になると、長船と関が刀の二大生産地になるのは、長船と関が武装勢力
化したからだと言われています。
>> >> >> 塚原 ト伝の道歌を読んだ事が有ります。
>> >> >> 曰「切れるとて、けして持つなよ、新刀は、持てば必ず、不覚ぞありける。」
>> >> その歌は本当にト伝の歌でしょうか?
>> >> 新刀というのは、江戸時代になってから使われるようになった言葉で、ト伝の時代
>> >> に新刀という言葉はないはずです。
>> >> また、新刀というのは慶長以降の刀の事であり、ト伝は慶長以前の人ですから、そ
>> >> の歌は後世の創作ではないでしょうか。
>> >> そういえば、加藤清正が刀工の一派である同田貫派を朝鮮に従軍させて、作刀さ
>> >> せたという話があります。これ以前にも、誰だったか忘れましたが、長船派の刀工
>> >> が陣中で作刀したという話もありますし、末相州派は後北条氏の御用鍛冶でしたか
>> >> ら十分武器はあったと考えて良いのではないでしょうか?
>> >> 数打というのは要するに実用刀という事ですし。
>> これは、新しい刀新しく打った刀は、信頼生が無いから使うな、の意でしょう。
>> まだ、其れほど、戦の多くない時期に打たれた刀は、丁寧に作られているでしょう。
>> 其の上、戦が多くなっても残っているものは、
>> 非常に丈夫な、刀と言えると思います。(寿命が来ているかもしれませんが(笑い)、
>> この賭けは、非常に割の良い賭けだと思います。)
>> つまり其れだけ、質が落ちていた事も事実なのでしょうね。
う〜ん、ちょっと苦しい解釈のような気がしますね。
勿論、そういう解釈も可能だと思いますが、古い刀というのは基本的には、お宝です
からね。お宝を実用品として使うのは難しいのではないかと。
それに、どうやって入手するのか?という問題もあります。
ト伝なら手に入ったのかも知れませんが、普通の武芸者や兵士が買うのはまず無
理でしょう。
それに、古い刀には何があるか分かりません。
まず、偽物が多いです。それから、本物でも問題のあるものがあります。
例えば、火事で駄目になってしまった刀に手を加えて、まともな刀に見せかけると
いうやり方があります。
それから、古い刀が必ず実戦を経験しているとは限りません。と言ってもちゃんとし
た刀なら良い刀だとは思いますが。
新しい刀に信頼性がないと言いきれるものでもないと思います。
江戸中期頃の新刀は別としても、普通に作れば使える刀にはなるのでは?という
気がします。
刀の寿命ですが、手入れしていれば、数千年は大丈夫という話を聞いたことがあり
ます。本当かどうかは知りませんが。
江戸時代に試斬をして、良く斬れた刀の中から選ばれたという業物の中には、鎌倉
初期の刀も含まれますから、刀の寿命というのはかなり長いのではないかと思いま
す。
>> 確かに、圧重ねの実用刀だったでしょう。
>> でも、殆、消耗品と割り切って使われたのでは、無いでしょうか。
>> ご記入の、加藤家の刀なんかは、特にレディーメイドの最たるブランド品だと思いますけど(笑い)。
確かに、伝家の宝刀等と比べれば消耗品と言えるかもしれませんが、現代的な意
味での消耗品とはかなり違うと思います。
現代の消耗品は、消耗品というより捨てる物といった方が良いでしょう。
刀の場合は、数打といっても大名の経済的負担を考えると、なるべく失わないように
していたのではないでしょうか。それでも、ある程度失ってしまうのが当時の消耗品
だと思います。
現存する刀の中で、最も多いのが戦国時代の数打であり、刀が大量に輸出された
中国には日本刀があまり残っていないという事を考えてみると、数打でもそれなり
に大切にしたのでしょう。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月26日(月)18時19分36秒 ]
>> 大刀と脇差の二本差の習慣は、室町時代からですね。
>> 脇差が製作されるようになるのは、室町時代からですから。
脇差の名がついたのは、其の頃ですね。
ただ、其れ以前から、太刀のほかに短い刀をさしたのが
始まりだったと、前に読んだ本に書いてありました
>> それ以前は太刀と短刀の二本差、室町からは大刀(太刀もまだ実用品だった?)、
馬に乗る場合やはり太刀の方が好いのかもしれませんね
ただ、刀としての馬上で使うのは、上級の武士だけで、
価値でも持っている人は、必要ならすりあげて使うでしょう。
>> 問題は戦国時代ですね。
>> 時代の変わり目ですから、大刀、脇差の二本差、大刀、短刀の二本差、三本持つ
>> 人など、色々いたのではないかと思います。
>> 江戸時代になっても、武術の流派によっては脇差より短刀の方が良い場合もあり
>> ましたから、脇差、短刀などの小型の武器は、個人の好みが反映されやすかった
>> のではないでしょうか?
確かに其の通りです。
>> >> 数打と言っても、せめて現在の手打ちの包丁ほどの手間はかけてあるものでしょう。
>> >> オーダーメードほどの質は、無くてもレディーメイドクラスだったでしょうね。
>> 基本的な製作方法は、数打も注文打も同じですから、手間はかかっていると思いま
>> すよ。ただ、数打は刀工本人ではなく弟子が作っている可能性が高いです。
>> 注文打の場合は刀工本人が丹精こめて作るか、高弟に手伝わせるか、数は少ない
>> と思いますが、他の刀工と合作するかでしょう。そういう刀はちゃんと銘を切ってあり
>> ます。
>> 数打だと無銘になっています。無銘の刀が必ずしも数打とは言えませんが。
>> 例えば祐定の無銘だと、祐定本人の作ではなく、祐定工房製という意味ではないか
>> と。勿論、祐定本人の作がまったく含まれていないかどうかは分かりませんが。
そう言うのも有ったでしょうけど、
ちと問題が、まず材質、依然書いた通り、南蛮鉄が問題ですね。
南蛮鉄 事態が、問題ではなく、其れに有った鍛え方をする事が必要でしょうけど、
其処まで手間をかけたか、と言うのが、でしょうが。
>> 因みに、戦国時代に駄馬で刀を運んだと書きましたが、普通に運んだのではなく、
>> 刀工の町である長船は武装していたらしくて、長船軍のような人達が運んでいたら
>> しいです。誰だったか忘れましたが長船の刀工の中には、刀工をやめて毛利軍の
>> 隊長になった人もいたそうですから、かなりの力を持っていたのでしょう。
>> この時代になると、長船と関が刀の二大生産地になるのは、長船と関が武装勢力
>> 化したからだと言われています。
面白い話を、ありがとうございます。
>> う〜ん、ちょっと苦しい解釈のような気がしますね。
>> 勿論、そういう解釈も可能だと思いますが、古い刀というのは基本的には、お宝です
>> からね。お宝を実用品として使うのは難しいのではないかと。
そうでしょうか?古いと言っても100年程度古道具的な刀で無名であれば、
そんなに高いものでしょうか?
忘れておられませんか、戦の激しくなる鎌倉末期からこの時代まで、
せいぜい100年こす程度である事を。
>> それに、どうやって入手するのか?という問題もあります。
>> ト伝なら手に入ったのかも知れませんが、普通の武芸者や兵士が買うのはまず無
>> 理でしょう。
其れは、名の有る刀の事でしょう。
無名の鍛冶は、いくらでも居たはずです。
今でこそ、評価されていても無名なんて人は、多かったのでは。
>> それに、古い刀には何があるか分かりません。
>> まず、偽物が多いです。それから、本物でも問題のあるものがあります。
>> 例えば、火事で駄目になってしまった刀に手を加えて、まともな刀に見せかけると
>> いうやり方があります。
>> それから、古い刀が必ず実戦を経験しているとは限りません。と言ってもちゃんとし
>> た刀なら良い刀だとは思いますが。
確かにそう言うのは有りですね。
実戦を何度も経験した刀は、其れこそ大変な名刀でしょう。
実戦を経験していない刀で、と言う意味にとります。
理由は、寿命の所で。
>> 新しい刀に信頼性がないと言いきれるものでもないと思います。
>> 江戸中期頃の新刀は別としても、普通に作れば使える刀にはなるのでは?という
>> 気がします。
普通に作られていればの話でしょう。
包丁ほどのテマ、と言うのは、そう言う意味だと思いますけど。
>> 刀の寿命ですが、手入れしていれば、数千年は大丈夫という話を聞いたことがあり
>> ます。本当かどうかは知りませんが。
>> 江戸時代に試斬をして、良く斬れた刀の中から選ばれたという業物の中には、鎌倉
>> 初期の刀も含まれますから、刀の寿命というのはかなり長いのではないかと思いま
>> す。
其れこそ希少価値の名刀だと言う事です。
人を切らなければ、基本的に手入れでもつと、私も聞いています。
>> 確かに、伝家の宝刀等と比べれば消耗品と言えるかもしれませんが、現代的な意
>> 味での消耗品とはかなり違うと思います。
>> 現代の消耗品は、消耗品というより捨てる物といった方が良いでしょう。
>> 刀の場合は、数打といっても大名の経済的負担を考えると、なるべく失わないように
>> していたのではないでしょうか。それでも、ある程度失ってしまうのが当時の消耗品
>> だと思います。
>> 現存する刀の中で、最も多いのが戦国時代の数打であり、刀が大量に輸出された
>> 中国には日本刀があまり残っていないという事を考えてみると、数打でもそれなり
>> に大切にしたのでしょう。
基本的に、人を切った刀は、だめになるそうです。
まともな刀で、せいぜい三人から5人で使えなくなるのが普通だそうです。
これ、身近に刀のコレクターっだった人の息子さんだった方が、いまして、この方から聞きました。
そして本当に人を切ったと言う刀は、調べると、基本的に、
だめになっていると言っていました。
つまりは、完全な消耗品なのです。
だから試して、名刀を探すんでしょうね。
普通の刀でもこの通りなのですから、後は、どんなものか判ると思います。
元の発言 [ Re: Title妻木晩田 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月2日(金)09時04分29秒 ]
地図を見ると,妻木晩田の辺りの海岸線の地勢と,
徳島県の牟岐の辺りの海岸線の地勢が似ています。
どちらも,沖合に目立った島まである。
# 以前に議論した富山県の氷見市と,
# 愛媛県西条市氷見の件を連想。
>> ところで「ははき」は蛇神のことですって?
なんというか,箒とか注連縄と,
大蛇の太い胴体とが想定されているらしいです。
蛇と鉄のからみで注目されていたのは,
鉄剣の切っ先と蛇の牙の鋭利な感触,
致命性が相通ずるらしい,という見方。
大野説だと,
日本方言の蛇(Fab-u)とタミル語の蛇(pamp-u)とが対応。
はぶ。毒蛇。
ただし,
>> ははきのくに。
>> 大山、孝霊山、縄文の狩場。
という場合,なんとなく母なるイザナミの命を連想。
「孝霊」は後世の漢風諡号。
この辺にいた高句麗系鍛冶屋の一部がヲロチ化したものか,
というような説はないでしょうか?
元の発言 [ Re: 「イブと七人の娘たち」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月18日(日)20時47分10秒 ]
北回り説を当然のことのようにとっていますね。詳細な議論がないのが残念。
根井の研究に代表されるような、特定の「人間集団」を前提とする研究を穏やかな表現ながらはっきりと退けている点が特に結構。
元の発言 [ Re: 世有王、皆統属女王国 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月26日(月)17時37分57秒 ]
レスが遅くなってごめんなさい。
一所懸命ご発言の趣旨を理解しようと努めてきましたが、どうやら私の理解力の外にあるようで、全体的に返答できないことに併せてお詫び申し上げます。
ですが、一点だけ、
>>しかし,委奴国は「倭の奴の国」との説が有力なのでは?
有力説というよりも、学校でもこう教えていますから、、、
で、「倭の奴の国」が倭人伝にいう奴国のことで、倭国の極南界ということですよね。
ところで一服さんは、この「奴の国」を女王国以北の奴国か、それとも其余旁国の奴国か、どちらのこととお考えでしょうか。
(金印は1784年の発見ですから、今はこれを根拠にしないでおいて下さい。)
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月26日(月)22時03分08秒 ]
脇から失礼します。
>> 基本的に、人を切った刀は、だめになるそうです。
>> まともな刀で、せいぜい三人から5人で使えなくなるのが普通だそうです。
>> これ、身近に刀のコレクターっだった人の息子さんだった方が、いまして、この方から聞きました。
#こういう話はよく聞きますが、どういう意味でしょうね。骨に当るとほぼ確実に刃こぼれが起きる、とかでしょうか。
白刃戦で刀どうしがぶつかり合えば、かなりいたむでしょうけど。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月26日(月)22時03分08秒 ]
>> そう言うのも有ったでしょうけど、
>> ちと問題が、まず材質、依然書いた通り、南蛮鉄が問題ですね。
>> 南蛮鉄 事態が、問題ではなく、其れに有った鍛え方をする事が必要でしょうけど、
>> 其処まで手間をかけたか、と言うのが、でしょうが。
南蛮鉄というのは、必ずしも数打用の鉄という訳ではないですね。
日本人は今でも舶来物が好きですが、この時代にもある程度そういう事があったらし
くて、『南蛮鉄を持って鍛える』と中心に切ってある刀があります。
つまり、南蛮鉄で作ったという事が宣伝になったのです。
>> >> う〜ん、ちょっと苦しい解釈のような気がしますね。
>> >> 勿論、そういう解釈も可能だと思いますが、古い刀というのは基本的には、お宝です
>> >> からね。お宝を実用品として使うのは難しいのではないかと。
>> そうでしょうか?古いと言っても100年程度古道具的な刀で無名であれば、
>> そんなに高いものでしょうか?
>> 忘れておられませんか、戦の激しくなる鎌倉末期からこの時代まで、
>> せいぜい100年こす程度である事を。
鎌倉時代は、日本刀のレベルが最も高かった時代です。
鎌倉時代の刀は、今では国宝、重文です。安い物でも数千万円はするのではない
でしょうか。
織田信長などは、この時代の刀を恩賞として家臣に与えていますし、信長が正宗を
磨上るかどうか悩んで人に相談したという話があります。
それから、無銘といっても後世の無銘とこの時代の無銘は意味が違います。
貴人に刀を納める時は、銘を切らないのが礼儀とされていましたから(例外はあった
と思いますが)。
>> >> それに、どうやって入手するのか?という問題もあります。
>> >> ト伝なら手に入ったのかも知れませんが、普通の武芸者や兵士が買うのはまず無
>> >> 理でしょう。
>> 其れは、名の有る刀の事でしょう。
>> 無名の鍛冶は、いくらでも居たはずです。
>> 今でこそ、評価されていても無名なんて人は、多かったのでは。
現存する鎌倉時代の刀は全て名刀です。
現存しない刀の中に下作があったかも知れませんが、現存しないので不明です。
それから、一般の鍛冶ならともかく、この時代に無名の刀鍛冶がいたかどうか。
刀という物は、製作法が秘伝でありそう簡単に学べるものではありません。
特に古い時代ほどその傾向が強く、刀鍛冶と刀の流派は土地に縛られています。
鎌倉時代だと五箇伝のうち四つ、山城伝、大和伝、備前伝、相州伝があります。
他国の鍛冶も大部分はこの流れを汲み、この系統に属さない例外的な流派は、脇
物と呼ばれるほどです。
また、新刀期になると刀工があまり土地に縛られなくなり、全国的に刀工が出現し
ますが、鎌倉時代(というか古い時代ほど)は刀が作られる国というのは限られてい
たようです。
>> >> 新しい刀に信頼性がないと言いきれるものでもないと思います。
>> >> 江戸中期頃の新刀は別としても、普通に作れば使える刀にはなるのでは?という
>> >> 気がします。
>> 普通に作られていればの話でしょう。
>> 包丁ほどのテマ、と言うのは、そう言う意味だと思いますけど。
普通に作っているでしょう。
数打でも芯鉄を皮鉄で包んで、折り返し鍛錬をしているのですから。
>> 基本的に、人を切った刀は、だめになるそうです。
>> まともな刀で、せいぜい三人から5人で使えなくなるのが普通だそうです。
>> これ、身近に刀のコレクターっだった人の息子さんだった方が、いまして、この方から聞きました。
>> そして本当に人を切ったと言う刀は、調べると、基本的に、
>> だめになっていると言っていました。
その知識は間違っていますね。
『歴史群像シリーズ31血誠新撰組』に居合の先生で、戦争で人を斬った人の体験
談が載っています。戦国時代の高田の刀で斬ったそうですが、数人斬ったら使えな
くなるという事はなかったと書いてあります。因みに高田は、数打、下作鍛冶の代
表のような物です。刀剣の本を読むと、数打=下作とあるので勘違いする人が多い
ですが、それは美術的な評価であって、数打だから武器としての性能が極端に劣る
という物ではないようです。
この先生によると、今から30年前にある作家が『人を斬ると三人くらいで斬れなくな
る』と書いているのを読んだとありますから、数人斬ったら斬れなくなるというのは作
家の創作でしょうね。
大体、古刀の大部分は血を吸ってます。
その意見が正しいなら、日本刀の大部分は駄目になっているという事になります。
現存する日本刀の内、最も数が多いのは戦国時代の数打ですからね。
それに、3〜5人で斬れなくなるのであれば、戦場の武器として使えないでしょう。
日本刀は千年以上戦場で使用されています。そんな役にたたない武器なら他の武
器が普及しているでしょうね。それこそ、金砕棒や斧の方が良いでしょう。
因みに今でも、数打で試斬やっている武道家は結構いますよ。
元の発言 [ Re: Re なんじゃこりゃ 元の発言[ ピクポポデミ] ] お名前 [ ピクポポデミ@ソウル ] 日付 [ 11月26日(月)12時02分22秒 ]
>> 笹と鶯は思いのほか近いようです。
(1)
鬼を「笹」で苦しめる,ということから,
「鶯」王が追討する,という連想になる,と。
「笹」=「鉄」がらみでの権力と富の象徴が
「鶯」ってのは?
鬼は,笹でカモフラージュした縄文ふうの罠に落ちて,
退治されたのかもしれません。
(2)
「ササ」に鉄の意味があるように,
「カニ」も「カネ」「カナクソ」と通じる。
鶯王も戦死している。
伯耆日野の印賀村にとって,竹は,禁忌だそうです。
「楽福神社の祭神,竹で眼を突いて一眼を失はれた」
という伝承があるそうです。>谷川健一著『青銅の神の足跡』
温羅伝説から類推すると,
戦いか刑罰で眼を突かれた可能性もあるので,
こうなると,祭神ってのは何者?
(3)
第2章 山陰地方における孝霊天皇
http://www.d6.dion.ne.jp/~i_yoshi/new_page_4.htm
で紹介されている『西宮神宮寺記録』には
「皇祖伊佐奈伎尊の陸墓が雲伯の境にあることを聞かれ」とあるが,
ここは「イザナミ」のほうが適。
(4)
視点を変え,
孝霊天皇の黒田蘆戸宮のあった黒田郷に注目すると,
近くに唐古・鍵遺跡があり,鏡作神社も多く,
『魏志倭人伝と邪馬台国』(読売ぶっくれっと)等によると,
弥生前期から古墳前期。
土器は,吉備,東海,など方々から運ばれている。
絵画土器が多く楼閣ものが出ている。
銅鐸の鋳型が発見されている。
といった例の特徴ですよね。
弥生遺跡としては妻木晩田と同時代的ふう?
伯耆の「向山古墳群」「向」は
「六木」と関連するんでしょうか?
「唐古」の地名については調べていませんが,
伯耆の「高麗山」が国内の「唐古」に由来する,
というような見方はあるんでしょうか?
ちなみに,
「高麗山」の由来が外国名としての「カラ」だとしたら,
高句麗というより新羅でしょう。
>> 4世紀末から5世紀初の古墳となっていました。
>> 詳細は知りません。
関心としては,鶯名のつく古墳,あるいは古墳一般は,
鬼退治した鉄争いの勝者の記念碑だったかもしれない,と。
>> 平安期に妻木が”つまき”であったのならそれだけでも収穫ですが。
伝承としては古い型かもしれませんよね。
ただし,
「御丈七尺、御面躰青く、面頭には三尺の角あり。飛行自在の天皇なり」
という辺りは,『先代旧事本紀』ふうといっても,
なんとなく江戸の『大成経』ふうのノリかもしれない。
『正保国絵図』には「六木村」とあるそうですが,
なぜか,この国家プロジェクトと同じ頃か,少し後,
潮音が『大成経』に関わったというのは・・・たまたま?
>> まあこれ以上はあまり出てこないかもしれない。
専門家の研究があれば一発なんでしょうけど,(^▽^)
日本の研究機関等のサイトはケチなので,
専門的な情報を入手しづらいです。
元の発言 [ Re: 世有王、皆統属女王国 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 11月28日(水)10時58分02秒 ]
安本派の九州説とか,他の折衷説とか,
その辺りの説を参考にして下さい。
岩波版解説では,倭面土国を伊都国と推定しています。
こういう考えもあるので,御説に興味はありますが,
「面土国」については,他に,
末羅説,山門説,畿内大和説もあって,
何とも分からないです。
奴国は,基本的には,博多周辺でしょうが,
女王国との比較は,魏略か陳寿の魏志によるか,
九州説か畿内説に立つか,折衷説かで,
難しいところです。
魏略でいうと,女国=奴国のふしがあるが,
元々,畿内王権の出先機関であったかもしれない。
(南九州の出先機関かもしれないし)
陳寿の魏志で言えば,女王国以北の奴国であり,
この場合,女王の居たところは,
実際には,八女とかが想定されます。
そのせいかどうか,
奴国を広域に捉える考え方もあるらしい。
ところが,
旅程の距離としては,
一説に,1日8キロから16キロと推定され,
遺跡の規模からしても,
陳寿の魏志でいう邪馬台国とは,
畿内の王都とするほうが,
考古学的には妥当となりつつある・・・。
そこで,折衷説として,
卑弥呼の居たところは九州,
後に台与の移ったところが畿内,
あるいは,元々,
畿内大和の出先機関が九州(奴国/不弥国)にあって,
とかなんとかの視点。
# 御存知とは思いますが。
元の発言 [ Re: 人を切った刀は、だめになる? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月28日(水)15時19分46秒 ]
>> #こういう話はよく聞きますが、どういう意味でしょうね。骨に当るとほぼ確実に刃こぼれが起きる、とかでしょうか。
>> 白刃戦で刀どうしがぶつかり合えば、かなりいたむでしょうけど。
私も、質問してみましたが、答えては、貰えませんでした。
だめになるのは、確かとしか言ったくれませんでしたので、
答えられなくて申し訳ありません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
鎧や具足をまとっているんですから当れば、当然傷つくでしょうね。
>>
戦国での使い方は、突きが主とは聞いています。
後は、隙間に当てるようにつきながらきるのがほとんどだと。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月28日(水)18時51分30秒 ]
>> 南蛮鉄というのは、必ずしも数打用の鉄という訳ではないですね。
其の通りです。
>> 日本人は今でも舶来物が好きですが、この時代にもある程度そういう事があったらし
>> くて、『南蛮鉄を持って鍛える』と中心に切ってある刀があります。
>> つまり、南蛮鉄で作ったという事が宣伝になったのです。
名刀だって残っているようですね。
>> >> >> からね。お宝を実用品として使うのは難しいのではないかと。
忘れてました、命有ってのお宝でしょうに。
>> >> そうでしょうか?古いと言っても100年程度古道具的な刀で無名であれば、
>> >> そんなに高いものでしょうか?
>> >> 忘れておられませんか、戦の激しくなる鎌倉末期からこの時代まで、
>> >> せいぜい100年こす程度である事を。
>> 鎌倉時代は、日本刀のレベルが最も高かった時代です。
>> 鎌倉時代の刀は、今では国宝、重文です。安い物でも数千万円はするのではない
>> でしょうか。
今じゃないんですから。
>> 織田信長などは、この時代の刀を恩賞として家臣に与えていますし、信長が正宗を
>> 磨上るかどうか悩んで人に相談したという話があります。
そりゃ、悩むでしょうよ。正宗ではね。
自分が、戦場働きするなら、間違い無くそうします。
そして、ここ一番と言うときに使うでしょう。
ですが、信長の立場で有れば、悩むでしょうね。
>> それから、無銘といっても後世の無銘とこの時代の無銘は意味が違います。
>> 貴人に刀を納める時は、銘を切らないのが礼儀とされていましたから(例外はあった
>> と思いますが)。
其の事は、正宗の銘の刀が、ほとんど無い事の説明にも使われますから知っていますが、
其れだけじゃないでしょう。
鎌倉時代で、字の書ける刀工がどれだけ居ると思っているのですか。
一のしるしを付けただけで名前の残っていない人が。
そして、結構刀工は移動してます。
有名な例としては、ホウキ安綱でしょう、記憶に間違い無ければ、日向に居た事も有るようだが、ホウキと云われてるでしょう。
また陸奥の守なんてのも多いし、陸奥に結構、餅鉄なんかを材料にした、刀工が居たらしいけど、多くは、名は残ってませんね。
>> >> >> それに、どうやって入手するのか?という問題もあります。
>> >> >> ト伝なら手に入ったのかも知れませんが、普通の武芸者や兵士が買うのはまず無
>> >> >> 理でしょう。
>> >> 其れは、名の有る刀の事でしょう。
>> >> 無名の鍛冶は、いくらでも居たはずです。
>> >> 今でこそ、評価されていても無名なんて人は、多かったのでは。
>> 現存する鎌倉時代の刀は全て名刀です。
>> 現存しない刀の中に下作があったかも知れませんが、現存しないので不明です。
そんな刀、戦場で淘汰されたに決まっているじゃ有りませんか。
>> それから、一般の鍛冶ならともかく、この時代に無名の刀鍛冶がいたかどうか。
>> 刀という物は、製作法が秘伝でありそう簡単に学べるものではありません。
>> 特に古い時代ほどその傾向が強く、刀鍛冶と刀の流派は土地に縛られています。
>> 鎌倉時代だと五箇伝のうち四つ、山城伝、大和伝、備前伝、相州伝があります。
>> 他国の鍛冶も大部分はこの流れを汲み、この系統に属さない例外的な流派は、脇
>> 物と呼ばれるほどです。
>> また、新刀期になると刀工があまり土地に縛られなくなり、全国的に刀工が出現し
>> ますが、鎌倉時代(というか古い時代ほど)は刀が作られる国というのは限られてい
>> たようです。
>> 普通に作っているでしょう。
>> 数打でも芯鉄を皮鉄で包んで、折り返し鍛錬をしているのですから。
度の位でしょうね、本当に、ひずみが取れ、繊維ができるまでやっているんでしょうか?
あと、焼き入れと其の後の検査、度の程度なのかな?
>> その知識は間違っていますね。
>> 『歴史群像シリーズ31血誠新撰組』に居合の先生で、戦争で人を斬った人の体験
>> 談が載っています。戦国時代の高田の刀で斬ったそうですが、数人斬ったら使えな
>> くなるという事はなかったと書いてあります。因みに高田は、数打、下作鍛冶の代
>> 表のような物です。刀剣の本を読むと、数打=下作とあるので勘違いする人が多い
>> ですが、それは美術的な評価であって、数打だから武器としての性能が極端に劣る
>> という物ではないようです。
>> この先生によると、今から30年前にある作家が『人を斬ると三人くらいで斬れなくな
>> る』と書いているのを読んだとありますから、数人斬ったら斬れなくなるというのは作
>> 家の創作でしょうね。
>> 大体、古刀の大部分は血を吸ってます。
>> その意見が正しいなら、日本刀の大部分は駄目になっているという事になります。
>> 現存する日本刀の内、最も数が多いのは戦国時代の数打ですからね。
>> それに、3〜5人で斬れなくなるのであれば、戦場の武器として使えないでしょう。
>> 日本刀は千年以上戦場で使用されています。そんな役にたたない武器なら他の武
>> 器が普及しているでしょうね。それこそ、金砕棒や斧の方が良いでしょう。
>> 因みに今でも、数打で試斬やっている武道家は結構いますよ。
あなたの、言葉からすると、最低でも数百万1千万以上から生き残っている刀ですよ。実戦で。
そして、そんなレベルの人ばか例使うわけじゃないんだから。
私は、戦国期より残っている数打ちの数がどの位有るか
知りませんが、其れでもせいぜいマンの単位でしょう。
幾百万の中から、不良を淘汰して残っている良品を、
淘汰された、不良品と同列にして論議はできないでしょう。
千に壱くらいの確立なんだと思いますけど、
そう言えば予断ですが、
昔漫画で、千のうち偶然にひとつだけ高性能の機械が、
出きることがあると言うのがありましたね。
其れだと思いますけど。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月2日(金)09時44分46秒 ]
>> 古墳は人の居住を示すものではありません。
>> 一世紀の後半から二世紀にかけて栄えたものの三世紀になると人口激減。古墳時代にはほぼ消滅といって良いでしょう。
>> 「ちょうど妻木晩田遺跡群がうまれて、爆発的に都市的ムラをつくって、ぱっと消えてしまう。その時期が、中国の歴史書に日本、倭がデビューする、そういう時代なんですね。」
妻木晩田遺跡の場合,
未知の可能性を秘めているという学者もいるので,
その辺は様子見です,,,(^^;
あの図を見ると,倭奴国王,特に倭国王帥升以降に大発展。
桓霊倭国の乱の辺りが最盛期に見えます。
そんで,
時代区分に曖昧な表現があることが議論となり,
この辺りの疑問点が背景にあるらしい発言です。
畿内大和政権(大和朝廷)の成立観に関わる見解なのでは?
# あてずっぽですいません。
同時に,次のような見解としてまとめてあります。
(4)妻木晩田遺跡群の年代について/【渡辺】
http://www.wnn.or.jp/wnn-history/muki/gozen/kouko4.html
「だから、弥生時代の後期まるごとですね、中期の終りから古墳時代の初めにちょっとかかりますけども、弥生時代後期まるごと、この遺跡は続いていたという状況が、これでわかると思います。」(「」内引用)
細かい点は,このスレッドで議論されていますね。
>> 投馬国に比定しようと努力するより、何故突然現れ、消えていったか考えたほうが良いような気がします。
そんで,
邪馬台国の場合も,研究によっては,
247年が一つの区切りでしょう。
そのまま衰退したという説とか,
265年の入貢記事を基に存続を説く説とか,
ま,いろいろありますが。
日本海航路による畿内説派の人々にとっては魅力的でしょうね。
基本的には,情勢としては畿内説が有利で,
しかも日本海航路が注目を集めているようだ,
という印象はありますから。
しかしながら,
個人的には,それを尊重しつつも,
いくつかの関心から九州にも注目しています。
元の発言 [ Re: 有りました! ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月28日(水)23時26分45秒 ]
>> >> それから、無銘といっても後世の無銘とこの時代の無銘は意味が違います。
>> >> 貴人に刀を納める時は、銘を切らないのが礼儀とされていましたから(例外はあった
>> >> と思いますが)。
>> 其の事は、正宗の銘の刀が、ほとんど無い事の説明にも使われますから知っていますが、
>> 其れだけじゃないでしょう。
>> 鎌倉時代で、字の書ける刀工がどれだけ居ると思っているのですか。
>> 一のしるしを付けただけで名前の残っていない人が。
>> そして、結構刀工は移動してます。
>> 有名な例としては、ホウキ安綱でしょう、記憶に間違い無ければ、日向に居た事も有るようだが、ホウキと云われてるでしょう。
>> また陸奥の守なんてのも多いし、陸奥に結構、餅鉄なんかを材料にした、刀工が居たらしいけど、多くは、名は残ってませんね。
移動した人の方が圧倒的に少ないでしょう。確認できるのは三十数人です。
一派ごと移住したのは除いてですが。
また、奥州は蝦夷の鍛冶ですからね。普通の鍛冶と一緒するのはどうかと思います
し、作品が現存しない割には、安房、雄安、森房、有正など結構名前が残っている
のではないでしょうか。
>> >> >> >> それに、どうやって入手するのか?という問題もあります。
>> >> >> >> ト伝なら手に入ったのかも知れませんが、普通の武芸者や兵士が買うのはまず無
>> >> >> >> 理でしょう。
>> >> >> 其れは、名の有る刀の事でしょう。
>> >> >> 無名の鍛冶は、いくらでも居たはずです。
>> >> >> 今でこそ、評価されていても無名なんて人は、多かったのでは。
>> >> 現存する鎌倉時代の刀は全て名刀です。
>> >> 現存しない刀の中に下作があったかも知れませんが、現存しないので不明です。
>> そんな刀、戦場で淘汰されたに決まっているじゃ有りませんか。
それは無理があるでしょう。
何故、戦国時代の刀は淘汰されないのですか?
>> >> その知識は間違っていますね。
>> >> 『歴史群像シリーズ31血誠新撰組』に居合の先生で、戦争で人を斬った人の体験
>> >> 談が載っています。戦国時代の高田の刀で斬ったそうですが、数人斬ったら使えな
>> >> くなるという事はなかったと書いてあります。因みに高田は、数打、下作鍛冶の代
>> >> 表のような物です。刀剣の本を読むと、数打=下作とあるので勘違いする人が多い
>> >> ですが、それは美術的な評価であって、数打だから武器としての性能が極端に劣る
>> >> という物ではないようです。
>> >> この先生によると、今から30年前にある作家が『人を斬ると三人くらいで斬れなくな
>> >> る』と書いているのを読んだとありますから、数人斬ったら斬れなくなるというのは作
>> >> 家の創作でしょうね。
>> >> 大体、古刀の大部分は血を吸ってます。
>> >> その意見が正しいなら、日本刀の大部分は駄目になっているという事になります。
>> >> 現存する日本刀の内、最も数が多いのは戦国時代の数打ですからね。
>> >> それに、3〜5人で斬れなくなるのであれば、戦場の武器として使えないでしょう。
>> >> 日本刀は千年以上戦場で使用されています。そんな役にたたない武器なら他の武
>> >> 器が普及しているでしょうね。それこそ、金砕棒や斧の方が良いでしょう。
>> >> 因みに今でも、数打で試斬やっている武道家は結構いますよ。
>> あなたの、言葉からすると、最低でも数百万1千万以上から生き残っている刀ですよ。実戦で。
>> そして、そんなレベルの人ばか例使うわけじゃないんだから。
>> 私は、戦国期より残っている数打ちの数がどの位有るか
>> 知りませんが、其れでもせいぜいマンの単位でしょう。
私も現存する数打の数は知りませんが、古刀の十中八九は戦国時代の刀ですから
、万ではきかない可能性が高いですよ。それから現存する刀の総数は、私の記憶
に間違いがなければ確認されているだけで、数百万本あったはずです。300万本と
いう説もあります。そして、現存する刀の多くは古刀、古刀の多くは数打です。
>> 幾百万の中から、不良を淘汰して残っている良品を、
>> 淘汰された、不良品と同列にして論議はできないでしょう。
>> 千に壱くらいの確立なんだと思いますけど、
>> そう言えば予断ですが、
>> 昔漫画で、千のうち偶然にひとつだけ高性能の機械が、
>> 出きることがあると言うのがありましたね。
>> 其れだと思いますけど。
そうすると、実用性の低い刀が現存しない以上、全て仮定の話にしかなりません
よ?それに、そいう理屈でいくと幾ら証拠を挙げてもまったく意味がありませんね。
有ったけど、現存していないと言われたらどうにもならないですから。
元の発言 [ Re: 人を切った刀は、だめになる? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月28日(水)22時51分16秒 ]
話がここまで進むと、隠していてもよくないので書きますが、私は戦国時代に創始さ
れた古武道を修行している者です。
>> >> >> #こういう話はよく聞きますが、どういう意味でしょうね。骨に当るとほぼ確実に刃こぼれが起きる、とかでしょうか。
>> >> >> 白刃戦で刀どうしがぶつかり合えば、かなりいたむでしょうけど。
>> 私も、質問してみましたが、答えては、貰えませんでした。
>> だめになるのは、確かとしか言ったくれませんでしたので、
>> 答えられなくて申し訳ありません。
骨では刃こぼれする可能性は低いです。
ただ、人間の歯を斬ると刃こぼれする可能性が高いです。
>> >> 刀どうしが当たらなくても、刃こぼれは起るんです。
>> >> もともと、日本刀などはかなり繊細なものですから。
>> >> で、刀っていうのは、最初の段階では敵を切る道具
>> >> ですが、血で濡れて、刃こぼれを起こすようになる
>> >> と、切れ味はかなり落ちますので、そっから先は、
>> >> 鉄の棒としての、いわゆる鈍器になります。もちろん、
>> >> 刀ほどの重量のあるものですと、刃がなくても、これ
>> >> で殴られれば人は死に至ることもある。
>> >> で、本当にすごい刀とは、その鈍器になったあとで、
>> >> とにかく、折れずに、長持ちするものなのだ、とか。
>> >> もちろん、戦いでその刀が生き延びれば(もってい
>> >> る人もふくめて)、再び磨かれて、刀として、つか
>> >> えるようになる。
>> 鎧や具足をまとっているんですから当れば、当然傷つくでしょうね。
>> >> あれは、ショーでしょー。
>> 戦国での使い方は、突きが主とは聞いています。
>> 後は、隙間に当てるようにつきながらきるのがほとんどだと。
流儀によりますが、大部分の流儀は斬ります。
基本的には、鎧の隙間をねらって斬ります。ただし、兜の上から斬ることはあったよ
うです。斬れなくても脳や首がダメージを受けますから。
元の発言 [ Re: 人を切った刀は、だめになる? ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月29日(木)01時27分56秒 ]
>> 話がここまで進むと、隠していてもよくないので書きますが、私は戦国時代に創始さ
>> れた古武道を修行している者です。
失礼しました。では無いかと、想像はしていました。
ですが、現実は、次に皆さんの書かれた内容全てだと思います。
>> >> >> >> 白刃戦で刀どうしがぶつかり合えば、かなりいたむでしょうけど。
>> 骨では刃こぼれする可能性は低いです。
>> ただ、人間の歯を斬ると刃こぼれする可能性が高いです。
>> >> >> 刀どうしが当たらなくても、刃こぼれは起るんです。
>> >> >> もともと、日本刀などはかなり繊細なものですから。
>> >> >> で、刀っていうのは、最初の段階では敵を切る道具
>> >> >> ですが、血で濡れて、刃こぼれを起こすようになる
>> >> >> と、切れ味はかなり落ちますので、そっから先は、
>> >> >> 鉄の棒としての、いわゆる鈍器になります。もちろん、
>> >> >> 刀ほどの重量のあるものですと、刃がなくても、これ
>> >> >> で殴られれば人は死に至ることもある。
>> >> >> で、本当にすごい刀とは、その鈍器になったあとで、
>> >> >> とにかく、折れずに、長持ちするものなのだ、とか。
>> >> >> もちろん、戦いでその刀が生き延びれば(もってい
>> >> >> る人もふくめて)、再び磨かれて、刀として、つか
>> >> >> えるようになる。
>> >> 鎧や具足をまとっているんですから当れば、当然傷つくでしょうね。
>> 流儀によりますが、大部分の流儀は斬ります。
>> 基本的には、鎧の隙間をねらって斬ります。ただし、兜の上から斬ることはあったよ
>> うです。斬れなくても脳や首がダメージを受けますから。
では、如何言うことでしょうか?
実は、父に聞いた事があるのです。
父の言えは、薩摩の没落氏族だったと聞いています。
其の家に伝わる刀でも、寿命と判断されたものは、
折られて、山刀や鉈または、短刀や包丁などに、作りかえられていたと。
実際に、折るのを見た事や折った事があるそうです。
最近に、なるまで、昭和の50年頃まで、
金属のリサイクルは、徹底したものでした。
この話は、金属器が少なかった武器が少なかったから来たものです。
古い鉄は、古鉄と言われて珍重されたものです。
今でも、明治以前の鉄釘だけを集めて、道具を打たれる方が居られますよね。
其れがもっと徹底していました。
あと、おにりんさんも書かれている通り、生き残った刀でも、
其の夜磨ぎ直され手入れされるとき、次も使えるか?
折損に至るような傷や痛み兆候は無いか、真剣に検査したはずです。
以前も書いた通り、戦場で、刀が折れては、命がありません。
其れは真剣でしたでしょう。
傷を見て怪しいと思われたら、よほどの名刀でなければ、
その場で別の刀に、変えられたでしょう。
そして余裕が無ければ、前に書いた通り
酷い時は、新しい刀の材料として、使われとこと自体常識として受け入れられるのです。
こう言う時、換えの刀を支給出来るか用意できるか、大きな要因でしょうね。
武士として、主君として。
元の発言 [ Re: 人を切った刀は、だめになる? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月29日(木)17時50分00秒 ]
>> >> 話がここまで進むと、隠していてもよくないので書きますが、私は戦国時代に創始さ
>> >> れた古武道を修行している者です。
>> 失礼しました。では無いかと、想像はしていました。
いや、別に失礼ではないですよ。
>> 父の言えは、薩摩の没落氏族だったと聞いています。
>> 其の家に伝わる刀でも、寿命と判断されたものは、
>> 折られて、山刀や鉈または、短刀や包丁などに、作りかえられていたと。
>> 実際に、折るのを見た事や折った事があるそうです。
>> 最近に、なるまで、昭和の50年頃まで、
>> 金属のリサイクルは、徹底したものでした。
>> この話は、金属器が少なかった武器が少なかったから来たものです。
>> 古い鉄は、古鉄と言われて珍重されたものです。
>> 今でも、明治以前の鉄釘だけを集めて、道具を打たれる方が居られますよね。
>> 其れがもっと徹底していました。
>> あと、おにりんさんも書かれている通り、生き残った刀でも、
>> 其の夜磨ぎ直され手入れされるとき、次も使えるか?
>> 折損に至るような傷や痛み兆候は無いか、真剣に検査したはずです。
>> 以前も書いた通り、戦場で、刀が折れては、命がありません。
>> 其れは真剣でしたでしょう。
>> 傷を見て怪しいと思われたら、よほどの名刀でなければ、
>> その場で別の刀に、変えられたでしょう。
>> そして余裕が無ければ、前に書いた通り
>> 酷い時は、新しい刀の材料として、使われとこと自体常識として受け入れられるのです。
>> こう言う時、換えの刀を支給出来るか用意できるか、大きな要因でしょうね。
>> 武士として、主君として。
どうしても、幾つかの疑問があるんですよね。
刀のリサイクルですが、リサイクルするのであれば、江戸時代に何故あれほど多く、
不良品である数打を手入れして、何百年も伝えてきたのでしょうか?
戦国時代には一般の兵士や武芸者が、性能の良い古い時代の刀を使っていたとい
う話の場合は、それだけ古い刀があれば、数打はいらないのではないでしょうか?
足りない分だけ注文打ですませた方が良いのではないか?という気がします。
それから数打にしても、折り返し鍛錬、刃文を付ける為の土置き、焼き入れなどの作
業がありますから結構手間がかかると思います。
さらに、研氏に刀を研いでもらい、専門の職人に柄、鞘、鍔、などを作ってもらう必要
がありますから、どれほど簡略化しても刀剣の製作には手間がかかります。
刀の管理の問題もあります。
刀は定期的に手入れしないと錆びますから、手入れにも手間がかかります。
岡山藩では、刀剣専用の油壷に刀を入れておいたそうですから、手入れの手間は
かかりませんが、使う時には油を落とし、柄や鍔や鞘を取りつけますから結局かなり
手間がかかります。
経済力の問題もありますね。
戦国時代は、織田のような大名だけではなく、1万石程度の山の中の小領主も頻繁
に戦争していました。刀を使い捨てにしたのであれば、その財源は何だったのでしょ
うか。
そして、これだけ手間とお金をかけても大部分の刀は不良品であれば、何故刀にこ
だわるのでしょうか?打撃用の武器を使った方が良いのではないでょうか?
人を斬った刀は駄目になるとのことでしたが、虎徹、兼重など罪人や罪人の死体を
使った試斬をさせてますが、駄目になってないのは何故でしょうか。
また、駄目になっているということは、そういう刀が沢山あるということですよね。
どこに行けば観られますか?
3〜5人斬ったら斬れなくなるとの事でしたが、証拠はなんでしょうか?
この話を否定するような証拠しか私は知りません。戦争で人を斬ったという居合の
先生の話にしても、その先生だけではなくその先生の戦友もその程度で斬れなく
なる事はなかったそうです。
江戸時代の山田浅右衛門の試し斬り絵図にしても、首を切断して、切断した頭部を
3回斬ったり、胸から上を切断し、腰から下を切断して、残った胴を四回斬ったり、手
足も切断して、数回斬っています。
また、渡辺淳一博士の集めた資料によると、普通の刀は200人の首を斬ると修理
不能になるという説もあります。
もっとも、歴代の山田浅右衛門の刀は500人の首を斬ったのに刃こぼれ一つないそ
うです。これは刀の性能の他に、名人としての技、さらに斬り方に秘密があるのでは
ないかと、医学博士の高橋長雄氏は推測しています。高橋博士によると、要するに
関節の隙間を斬っていたから刃こぼれしていないのではないか?との事です。
私が介錯を学んだ時も、関節の隙間を斬るコツを教えられましたから、高橋博士の
説と一致します。
それと、これは別の人の書きこみでしたが、実戦や試斬に使用する場合は、寝刃合
わせをします。寝刃合わせというのは、刃をノコギリ状(肉眼で確認できるほどでは
ありません)にして、刃こぼれしにくい状態にするのです。
元の発言 [ Re: 人を切った刀は、だめになる? ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月30日(金)01時02分41秒 ]
誤解のないように書いておきますが、刀のリサイクルを否定している訳ではないです
よ。そういう事はあったと思います。駄目になった刀は、リサイクルするだけではなく、
居合の稽古に使ったりもしたようですが。
ということで、よろしく。
元の発言 [ Re: 人を切った刀は、だめになる? ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 11月30日(金)01時02分41秒 ]
>> どうしても、幾つかの疑問があるんですよね。
>> 刀のリサイクルですが、リサイクルするのであれば、江戸時代に何故あれほど多く、
>> 不良品である数打を手入れして、何百年も伝えてきたのでしょうか?
一応、使えるからでしょう。
昔、警官が、切れもしないサーベルを下げていたのと同じです。
持っているだけで、示威行為となるためです。
>> 戦国時代には一般の兵士や武芸者が、性能の良い古い時代の刀を使っていたとい
>> う話の場合は、それだけ古い刀があれば、数打はいらないのではないでしょうか?
>> 足りない分だけ注文打ですませた方が良いのではないか?という気がします。
其れこそ、経済的に大変でしょう。
数打ちでも、言われたように、包丁ほどに使える刀が、モ越されているのでしょう。
剣や刀とは、元々権威の象徴だったからです。
金属の少ない時代に、作るのに大量の金属を必要とします。
たとえば鑓や短剣に比べてですが。
其れだけ費用がかかるので豊かである証拠となる
そして恒に公然と持ち歩ける。
短剣などと違い、隠す事が出来無いと言う意味で、公正な武器と言う評価をされています。
建物などに入るのに、大きな鑓などなかなかもっては入れない場合も有るでしょう。
>> それから数打にしても、折り返し鍛錬、刃文を付ける為の土置き、焼き入れなどの作
>> 業がありますから結構手間がかかると思います。
>> さらに、研氏に刀を研いでもらい、専門の職人に柄、鞘、鍔、などを作ってもらう必要
>> がありますから、どれほど簡略化しても刀剣の製作には手間がかかります。
>> 刀の管理の問題もあります。
>> 刀は定期的に手入れしないと錆びますから、手入れにも手間がかかります。
>> 岡山藩では、刀剣専用の油壷に刀を入れておいたそうですから、手入れの手間は
>> かかりませんが、使う時には油を落とし、柄や鍔や鞘を取りつけますから結局かなり
>> 手間がかかります。
>> 経済力の問題もありますね。
>> 戦国時代は、織田のような大名だけではなく、1万石程度の山の中の小領主も頻繁
>> に戦争していました。刀を使い捨てにしたのであれば、その財源は何だったのでしょ
>> うか。
>> そして、これだけ手間とお金をかけても大部分の刀は不良品であれば、何故刀にこ
>> だわるのでしょうか?打撃用の武器を使った方が良いのではないでょうか?
ですから、基本的に当時の主武器は、鑓でしょう。
勿論打撃武器も使われています。
テッカン漢字が出ないので、失礼、一種の棍棒ですね。
中国から伝わっていますが、よく聞く武器です。
カナサイボウとか
でも、普通、鑓相手には、余り使いたくないように思います。
>> 人を斬った刀は駄目になるとのことでしたが、虎徹、兼重など罪人や罪人の死体を
>> 使った試斬をさせてますが、駄目になってないのは何故でしょうか。
>> また、駄目になっているということは、そういう刀が沢山あるということですよね。
>> どこに行けば観られますか?
>> 3〜5人斬ったら斬れなくなるとの事でしたが、証拠はなんでしょうか?
>> この話を否定するような証拠しか私は知りません。戦争で人を斬ったという居合の
>> 先生の話にしても、その先生だけではなくその先生の戦友もその程度で斬れなく
>> なる事はなかったそうです。
>> 江戸時代の山田浅右衛門の試し斬り絵図にしても、首を切断して、切断した頭部を
>> 3回斬ったり、胸から上を切断し、腰から下を切断して、残った胴を四回斬ったり、手
>> 足も切断して、数回斬っています。
お答えしたいのですが、私も知らないのです。
>> また、渡辺淳一博士の集めた資料によると、普通の刀は200人の首を斬ると修理
>> 不能になるという説もあります。
>> もっとも、歴代の山田浅右衛門の刀は500人の首を斬ったのに刃こぼれ一つないそ
>> うです。これは刀の性能の他に、名人としての技、さらに斬り方に秘密があるのでは
>> ないかと、医学博士の高橋長雄氏は推測しています。高橋博士によると、要するに
>> 関節の隙間を斬っていたから刃こぼれしていないのではないか?との事です。
>> 私が介錯を学んだ時も、関節の隙間を斬るコツを教えられましたから、高橋博士の
>> 説と一致します。
>> それと、これは別の人の書きこみでしたが、実戦や試斬に使用する場合は、寝刃合
>> わせをします。寝刃合わせというのは、刃をノコギリ状(肉眼で確認できるほどでは
>> ありません)にして、刃こぼれしにくい状態にするのです。
一つ聞いた話を、以前、何かで読んだ事ですが、覚えていたので。
幕末に、信州の真田家で、刀の切れ味と其の強靭さを試した事があるそうです。
世に言う、真田家の荒試し
其の記録の一分が、引用されたものを呼んだ事があります。
実際に、打ち折試しに近い事をやったようです。
古刀から数打ち新刀、また幕末の現代刀など、
其の時、興味を持ち、探してみたのですが、読みやすいものも、
原文の記録の写しも見つける事は出来ませんでした。
もし可能でアルナラ、これが答えになるかもしれません。
私のお答えできるのも、これまでです。
元の発言 [ Re: 音韻の置換 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月8日(木)09時36分06秒 ]
居る居る考えてみたんですが。
聞く人の育った環境で言葉の聞き取り方が違ってくると言う事は、本当に有得ない事ののでしょうか?
私には、有ってもおかしくないと思われるのですが。
表記音は、標準としても、聞き取りは同なのでしょう?
『邪馬台国への疑問』 副題ーー邪馬台国に関しての歴史家及び考古学者の誤謬ーー
今回初めて投稿するにあたりこのサイトに私の考えていることを皆さんに問いたいと思い参加してみました。私は『邪馬台国』の存在は認めることにやぶさかではありませんが、それを草創期に於いて日本の全てを支配していたという定義に大きな疑問を持っているものです。
現代に於ける考古学者に日本の草創期について問うたならば、殆どの学者は邪馬台国から始まったとしています。戦後の歴史の教科書邪馬台国を国の始まりとしている訳ですが、抑も邪馬台国とは一体どういう存在であったのか。その元となる原点は中国の『魏志倭人伝』に求めたものであります。この『魏志倭人伝』はある意味では自国の都合の良いように書かれた広報誌的な書物ではないでしょうか。この中で言う「倭人」とは「従順な人」という意味であり、すなわち、自分たちの奴隷という発想がそこにはある。であるから、この魏志倭人伝の中で表現される日本人は「卑狗」「卑奴」「鬼奴」等々、同じ人間としては見ていない文字がたくさん出てきている。そのような国の、それも偏見に充ちた歴史書に出てきている邪馬台国という国(?)を日本の草創期の国と考えている学者たちの神経が私には信じられないのです。自分たちの歴史の原点を他国の文書に求める姿勢ははたして、正しいと云えるのか?私は邪馬台国などは地方の一つでしかなかったと考えています。すなわち、現代に於ける県みたいなものであります。そう考えたならば、場所が九州であろうが大和であろうがそんなことはどうでも良くなってくるのではないでしょうか。大切なことは、他国の歴史書に頼った歴史の研究、それも中国のような中華思想(自分の国こそこの世界の中心であり、他国は従属するべき存在)によって凝り固まった国の歴史書に頼ることはないと思うのです。
元の発言 [ Title 初めて投稿します ] お名前 [ 小林 ] 日付 [ 11月3日(土)05時35分26秒 ]
>> その元となる原点は中国の『魏志倭人伝』に求めたものであります。この『魏志倭人伝』はある意味では自国の都合の良いように書かれた広報誌的な書物ではないでしょうか。
確かに自国の都合の良い書き方はしているでしょう。
「記紀」が“大和政権”に都合の良いように書かれているのと同様に。
“卑字”云々はおにりんさんの詳しいレスに賛成です。
>> 場所が九州であろうが大和であろうがそんなことはどうでも良くなってくるのではないでしょうか。
大和であった場合は「邪馬台国という国(?)を日本の草創期の国」とすることになり、
九州であったら「日本の全てを支配していたという定義は間違い」ということです。
その意味で、「そんなことはどうでも良くなってくる」ことはありません。
元の発言 [ Title 初めて投稿します ] お名前 [ 小林 ] 日付 [ 11月3日(土)05時35分26秒 ]
>> 私は『邪馬台国』の存在は認めることにやぶさかではありませんが、それを草創期に於いて日本の全てを支配していたという定義に大きな疑問を持っているものです。
と言う点には私も賛成です。
>> この『魏志倭人伝』はある意味では自国の都合の良いように書かれた広報誌的な書物ではないでしょうか。この中で言う「倭人」とは「従順な人」という意味であり、すなわち、自分たちの奴隷という発想がそこにはある。
奴隷という発想はどうでしょう。
中華思想で自分達が一番偉いとは思っていたらしいですが。
卑弥呼の初朝貢に対して何倍もの返礼をしています。
奴隷にそんな事をしないでしょう。
>> であるから、この魏志倭人伝の中で表現される日本人は「卑狗」「卑奴」「鬼奴」等々、同じ人間としては見ていない文字がたくさん出てきている。そのような国の、それも偏見に充ちた歴史書に出てきている邪馬台国という国(?)を日本の草創期の国と考えている学者たちの神経が私には信じられないのです。
東夷伝の序文に「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。」と言う記載があります。
「長老説有異面之人、近日之所出」とありますからこれは倭人の事を言っているのに違いありません。
「中國礼を失した時、これを四夷に求む、夷狄の国と雖も猶お信あり」
となると寧ろ尊敬していたともとれます。
>> 自分たちの歴史の原点を他国の文書に求める姿勢ははたして、正しいと云えるのか?私は邪馬台国などは地方の一つでしかなかったと考えています。すなわち、現代に於ける県みたいなものであります。そう考えたならば、場所が九州であろうが大和であろうがそんなことはどうでも良くなってくるのではないでしょうか。大切なことは、他国の歴史書に頼った歴史の研究、それも中国のような中華思想(自分の国こそこの世界の中心であり、他国は従属するべき存在)によって凝り固まった国の歴史書に頼ることはないと思うのです。
ほかに頼るべき資料はありません。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月3日(土)18時59分30秒 ]
>>
すぐに殺されるのでなければ簡単に逃げ出したりしないでしょう。
>> 銅鐸が壊して廃棄された理由もうまく説明できます。
>>
物宗教観の違う種族が襲来して畿内を占拠した証拠でしょう。
>> 北朝鮮で四隅突出墓が見つかっている事を無視して議論は出来ないでしょう。
>>
>> 前方後円墳の起源はともかく、すべて日本発祥と考えるのはおかしいと思います。
>> 甕棺などアジアからインドまでの広がりを持っているのですから。
>>
>>
>>
四隅突出墓は甕棺でも割竹木棺でも無かったようですね。
四隅突出墓のような特殊な墓制が日本に何の脈絡もなく突然現れ、忽然と消える。
北朝鮮に四隅突出墓が見つかっている。
四隅突出墓が日本に出現する時期の直前漢が半島に進出している。
これだけ状況証拠がそろっていればその関連は明らかでしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月4日(日)05時36分00秒 ]
>> >> どうして、逃げるのに200年とかかかっているわけ?
>> すぐに殺されるのでなければ簡単に逃げ出したりしないでしょう。
提案なんですけど、ほぼ同時期にベトナムあたりで
栄えた通称国家をイメージしても悪くないと思うんですけど?
また、衰退した理由も海外貿易の活きずまりだとするなら
元の滅びたときの青森県十三湊の例をあげるなら理解しやすいのでは?
あれは地震の被害より、アジアの通商政治体制変化に
衰退の原因があるそうですね。
当時の国際状況は、そのものずばり何では?
>> >> >> 銅鐸が壊して廃棄された理由もうまく説明できます。
>> >> どうして?
>> 物宗教観の違う種族が襲来して畿内を占拠した証拠でしょう。
ちと違うのでは、同じ様な価値観を持っていても
戦に破れれば同じようなことをした可能性は、大いに有ります。
と言うよりそのほうが可能性は高いかも?
>> >> >> 北朝鮮で四隅突出墓が見つかっている事を無視して議論は出来ないでしょう。
>> >> はい?
>> >> >> 前方後円墳の起源はともかく、すべて日本発祥と考えるのはおかしいと思います。
>> >> >> 甕棺などアジアからインドまでの広がりを持っているのですから。
>> >> そうですけど。
>> >> で、割竹木棺が、江南にルーツがあるなんていうのは、
>> >> どうですか?
>> 四隅突出墓は甕棺でも割竹木棺でも無かったようですね。
>> 四隅突出墓のような特殊な墓制が日本に何の脈絡もなく突然現れ、忽然と消える。
>> 北朝鮮に四隅突出墓が見つかっている。
>> 四隅突出墓が日本に出現する時期の直前漢が半島に進出している。
>> これだけ状況証拠がそろっていればその関連は明らかでしょう。
まあ、一理有ると認めざる終えないと思いますね。
ですが時期尚早の嫌いは有ると思います。
元の発言 [ Re: Title 初めて投稿します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月3日(土)18時56分51秒 ]
>>
>>
>>
# 三国志の登場人物でも、文醜とか卑衍とかいう人いますけどね。
元の発言 [ Title 初めて投稿します ] お名前 [ 小林 ] 日付 [ 11月3日(土)05時35分26秒 ]
>> ・・・そう考えたならば、場所が九州であろうが大和であろうがそんなことはどうでも良くなってくるのではないでしょうか。
#大違いだと思いますが.
>> ・・・他国の歴史書・・・に頼ることはないと思うのです。
#「他国の」に限らず,考古学が文献に頼るのは奇妙なことです.遺跡・遺物をして語らしめるのが考古学のはず.
(ってことじゃないのはわかっていますが.)
元の発言 [ Re: Title妻木晩田 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月2日(金)22時47分28秒 ]
>> 「孝霊」は後世の漢風諡号。
いえそういうことではなく、山岳信仰で大山では大きすぎて
孝霊山であれば集落との関係が、纒向と三輪山に相似するかなという意味で興味深いだけです。
でも孝霊山にはイワクラなどは見つかってないんでしょうね。
元の発言 [ Re: Title妻木晩田 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月1日(木)11時38分10秒 ]
>> 妻木晩田遺跡ですが、この地名の妻木山、妻木川について、由来をご存知のかたいらっしゃいますか。
>> ちょっと調べた限りではよく分からなかったもので。
>>
>>
ムキバンダだもんね。字が小さいと「壹」と「臺」より間違いやすいかも。(^^)
>> で、つまり、”つまき”なら投馬城、とか・・・
>>
>>
>>
>>
妻木晩田遺跡は弥生後期には衰え、古墳時代には消滅してしまうんですが。
投馬国に比定するのは無理がありませんか?
m(_ _)m
元の発言 [ Re: ありました! ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月2日(金)22時45分53秒 ]
>> >> 「伯耆民談記」にも類似の記述がある。正保国絵図には六木村とみえる。
>>
>> これも「むきむら」と読むらしい。
この部分を載せると当然そういう反応がくると思いましたが、
都合のよいとこだけ載せるのもと思って載せました。
ただ正保ははるか後の近世ですので、当然新しい読みが定着して後のことと思います。
私も別に地名が決め手になるなどとは思っていません。
そもそも私は投馬国=出雲が本命ですから。
まあ色々考えてみます、という話です。
別段きまった話ではないですから。
元の発言 [ Re: ありました! ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月4日(日)12時00分11秒 ]
>>
>>
地方の小地名が、初めて漢字記載されるとしたら、どの時代でしょうか?
ケースバイケースですが、和名称には見当たらなかったですね。
以下によりと、木と城は同じですね。
妻木という漢字表記がさきに(例えば律令時代)あって、妻来が平安以降に出来た地名説話で、
その後(例えば平安末―鎌倉初、または南北朝―室町期とか)ムキと呼ぶようになったというのは虫がよいですか。(やっぱり)
で正保以前(戦国―江戸期)に六木の表記が出来たとか。
それぞれ大きな支配階級の入れ替え時ですから。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月2日(金)22時37分05秒 ]
>> 妻木晩田は他の弥生遺跡と少し違うと思っています。
>> 妻木晩田遺跡には農耕の跡がありません。
これについてはいくつか意見のあるところでしょう。
農耕を行っていたという意見もあります。
ただ広範囲の農業生産物に依存する、都市型集落ではあると思います。
>> また周囲を見渡しても妻木晩田の人口を支えるほどの平野がありません。
この集落は米子平野の中核集落ととらえることもできます。
農地から遠いことで、かなり都市的な集落と評価できるでしょう。
お説の通り、米子平野のみならず、倉吉平野や、安木平野も勢力圏にあった可能性は高いです。
>> 彼らはバイキングのように周囲の農魚民から収奪する事によって生活していたのではないでしょうか。
>> 出雲あたりまで支配できれば別ですが、自ら食料生産をしない集団による収奪は過酷だったと思います。
>> しかし収奪される農漁民は彼らの周りから逃げ出していき、遠くまで収奪しに出かけなければならなくなり、ついにはかれらの生活を支えられなくなって滅んだと推測しています。
バイキングは単なる盗賊行為の場合には、それほど長期の拠点をもっていないのでは。
バイキングの築いた城などは、ヨーロッパ一円にありますが、それはその地域の政治的支配を行うケースでした。
なによりもこの遺跡、現在発掘された範囲でも、開始から消滅まで300年近くあります。
これは江戸幕府の継続期間よりも長いです。
ある程度の遺跡規模をもった期間でも、150年をかなり超えるようです。
これは鎌倉幕府の継続期間を大きく上回ります。
それだけの期間いわゆる盗賊行為のみで成り立っていったとは思えませんから、ここは地域一円の支配の拠点だったのではないでしょうか。
政治的支配による収奪も、収奪のための仕組みの自己増殖により、やがてその重みに耐え切れず崩壊することがあります。
歴史時代の各王朝や、政権が一定期間で衰退する主因と考えられます。
中国の王朝でも、西晋などはほんと短いですね。
長いところで、前漢後漢合わせて400年。
この遺跡の継続期間は、そのような政治支配の継続期間と考えるに十分な時間です。
これをもって盗賊集団の町とするなら、平城京も戦国の有力諸侯の本拠地も、全て盗賊集団の本拠地ですね。
あ、魏の都もそうですか。
>>
>> >> そこらへん集中的に議論されてますね。
>> >> 環濠集落から散村+古墳+豪族居館の形態へ。
>> 「散村+古墳」と言うのが一つのヒントです。
>> その理由は強い武力をもったバイキングのような部族が弥生集落を襲いムラはちりじりになり、バイキングは支配者として君臨し古墳を築いたと考えるのが妥当です。
>> 銅鐸が壊して廃棄された理由もうまく説明できます。
小暴力が連続する時代には、どこの世界でも人々は集まって、防御的なしゅうらくを作ります。
バイキングの例では、本格的な中世社会の到来を告げ、城を中心とした分権的社会が訪れます。
しかし初期には極めて小規模でも、城を中心とした防御施設が認められます。
バイキング自体が集落を城に囲い込みます。
散村といってもかなり印象が異なります。
高地性集落の時代だとすると合いますが。
古墳時代はその終わりですから。
また古墳の継続時間もまた、一般的な政治権力の継続期間ぐらいは充分にあります。
>> >> 通常の年代観で三世紀末、山陰には多くの四隅突出型墳丘墓が生まれています。
>> >> 個々にみても弥生墳丘墓のなかで、同時期最大級のものが多数出ています。
>> >> この地域、つまり石見から出雲、伯耆、因幡をまとめれば、かなりの勢力でしょう。
>> 四隅突出型墳丘墓をとってみれば妻木晩田では一世紀末位から四隅突出墓を作っている訳です。
>> 四隅突出墓の拡がりが日本海沿岸である事に注意を払うべきです。
四隅突出型墳丘墓については、その文化要素の起源が大陸にあると考えています。
最古の四隅突出型墳丘墓は広島県三次盆地にあり、紀元前に始まります。
妻木晩田はこの伝統を継いでいるわけです。
その他の文化要素も、国内弥生文化の各要素が折り重なり、決してこの遺跡が突出したものではないことを示しています。
弥生文化自体が大陸の影響下に誕生しているのですから、大陸起源の文化要素が見つかったから即其の時点での侵略者を想定することは出来ません。
>> 北朝鮮で四隅突出墓が見つかっている事を無視して議論は出来ないでしょう。
これですが中国国境に近いところの話ですね。
例の北朝鮮の前方後円墳のはなしと同じ調査ですよね。
これはどの程度評価が定まっているのでしょう。
以下のような記事もありますが
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2000/11/09/03.html
四隅突出墓の文化要素の一部が大陸起源であるのは、ほとんどの人が見止るところのようですが、(私もそうです)
この形式の墳墓が最も多く、長い期間存在しているのは日本です。
江の川の上流の住人が持ち込んだにしろ、土着化したぼせいが山陰に広まったものと思います。
>> 前方後円墳の起源はともかく、すべて日本発祥と考えるのはおかしいと思います。
>> 甕棺などアジアからインドまでの広がりを持っているのですから。
だれもそんなことは考えていません。
ただアレンジなしに丸ごと持ち込まれたとも思いません。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月2日(金)21時52分09秒 ]
>> ちと気になることがありまして、この時代背景なんですが、
>> まず、アジアの中で中国の戦乱、このため逃げ出した人々が、
>> 大量に雪崩れ込む状況と言えるでしょう。
この時代世界的に環境の悪化した可能性が指摘されています。
ローマは五賢帝最後の皇帝の時代に疫病にみまわれ、三世紀に入るといわゆる軍人皇帝の時代に入ります。
ローマはこのとき跡形もなくなって不思議はなかったのですが、30万のゴート族を打ち破って勢いに乗り、
帝国を回復します。
そのごついにゲルマン民族移動によって国の半分を失うわけです。
中国ではご存知長く続いた漢王朝が滅びます。
そのあと西晋がなんとか国をまとめますが、結局国の半分を異民族に奪われます。
日本でも三国史記に残るように、この時代飢饉が頻発したようです。
東北北部が北海道で成立した文化圏に取り込まれるのもほぼ同時期です。
全世界的に古代から中世への混乱の時代と言えなくもないです。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月4日(日)02時34分16秒 ]
>> 弥生終末期あたりから集落の形態が変わり始めたという考えもあり、一概に言えないのでは?
>>
>>
>>
一般的にはそうでしょうね。
ただ私は倭人伝中の倭国乱は短期と思いますし、可能性としては庄内期に食い込んでいる可能性もありうるとおもいます。
もっとも庄内期には断絶はなさそうですが。
>>
>>
つぶては重要ですよ。
現代でも争乱のたびにとんでます。
古代南米では投石器が主な兵器です。
>>
>>
現代戦の感覚からするとそうかも知れませんが、お互いに充分認知できる至近距離の争いですから、感覚的にはもっと恐ろしいものがあったとおもいます。
>>
>>
>>
>>
兵站能力ですが、弥生後期の瀬戸内あたりはかなり評価できるとおもいます。
三国史記に1000人単位の倭人が飢えて攻め込んできた話がありますが、水上では想像以上の兵站力があったのでは?
>> 半世紀遅れたなどという話は知りませんでした。
>> 紀年鏡の神原神社古墳などもありますが。
>>
>>
>>
>>
>>
>> そこらへん集中的に議論されてますね。
>> 環濠集落から散村+古墳+豪族居館の形態へ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
やはり社会変化は一斉に近いとおもいます。
それが妻木晩田にも影響を与えているととるのですが。
>> 通常の年代観で三世紀末、山陰には多くの四隅突出型墳丘墓が生まれています。
>> 個々にみても弥生墳丘墓のなかで、同時期最大級のものが多数出ています。
>> この地域、つまり石見から出雲、伯耆、因幡をまとめれば、かなりの勢力でしょう。
>>
>>
>>
>>
妻木晩田を投馬とすると、但馬、丹後、丹波も入れていいかも。
イ組みとタ組みなんちゃって。
PS:邪馬台国から大和政権へ 読みました。
でも畿内の銅鐸勢力が邪馬台国へ発展した説は違和感が残ります。
私は今漢鏡5期の鏡の分布に悩んでいるのですが、唐子鍵がこんな鏡を手に入れて、北部九州に次ぐほどの勢力だったんでしょうか。
どうも今ひとつです。
特に祭祀と政治、鉄器で進展の見られる中国地方が、鏡の空白域なのも気になります。
これって政治的な力を表すというより、嗜好(祭祀)の違いじゃないんでしょうかね。
青銅器祭祀は卒業してしまったとか。
北部九州から四国、近畿と逆半月型に青銅器祭祀が残っているみたいにみえます。
まるで周辺地域で有るかのように。
>>
>>
狗奴国どこでしょうね。
海神国邪馬台の神といえば海蛇ですから蛇をお祭りする巫女である卑弥呼は実は蛇子だった。
と言うのはどうでしょう。
古語で蛇は「pimi」とか「hemi」とか言っていたらしいですよね。
古語はあまり詳しくは無いんで誰かフォローしてくれると有難いです。
よろしく。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月4日(日)08時43分00秒 ]
>> 提案なんですけど、ほぼ同時期にベトナムあたりで
>> 栄えた通称国家をイメージしても悪くないと思うんですけど?
「通称国家」? 通商のまちがいかな?
>> また、衰退した理由も海外貿易の活きずまりだとするなら
>> 元の滅びたときの青森県十三湊の例をあげるなら理解しやすいのでは?
通商国家なら出雲の方がやりやすい。
どうして朝鮮半島が見えない所に隠れるように国を作ったのか。
妻木晩田人の心理を考えると逃げてきた集団と言う気がします。
>> あれは地震の被害より、アジアの通商政治体制変化に
>> 衰退の原因があるそうですね。
>> 当時の国際状況は、そのものずばり何では?
そのような可能性も無しとはいえませんが。
>>
>> >> >> >> 銅鐸が壊して廃棄された理由もうまく説明できます。
>> >> >> どうして?
>> >> 物宗教観の違う種族が襲来して畿内を占拠した証拠でしょう。
>> ちと違うのでは、同じ様な価値観を持っていても
>> 戦に破れれば同じようなことをした可能性は、大いに有ります。
>> と言うよりそのほうが可能性は高いかも?
大陸や半島で動乱がある度に難民が日本列島にやってきた事は誰もが否定し得ないでしょう。
中でもある人数がまとまればクニをつくり、周辺の原住民より優れた武器を持って収奪により労働をせずに貴族的生活を享受するわけです。
妻木晩田は 畿内と違って周辺の農耕可能な平野の広がりがありませんから発展できずに消えていった。
先駆ヤマト国だった可能性があります。
>> >> >> で、割竹木棺が、江南にルーツがあるなんていうのは、
>> >> >> どうですか?
>> >> 四隅突出墓は甕棺でも割竹木棺でも無かったようですね。
>> >> 四隅突出墓のような特殊な墓制が日本に何の脈絡もなく突然現れ、忽然と消える。
>> >> 北朝鮮に四隅突出墓が見つかっている。
>> >> 四隅突出墓が日本に出現する時期の直前漢が半島に進出している。
>> >> これだけ状況証拠がそろっていればその関連は明らかでしょう。
>> まあ、一理有ると認めざる終えないと思いますね。
>> ですが時期尚早の嫌いは有ると思います。
私には時期が恐ろしいくらいピッタリあっているように思えます。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月5日(月)11時28分16秒 ]
>> >> ちと気になることがありまして、この時代背景なんですが、
>> >> まず、アジアの中で中国の戦乱、このため逃げ出した人々が、
>> >> 大量に雪崩れ込む状況と言えるでしょう。
>> この時代世界的に環境の悪化した可能性が指摘されています。
>> ローマは五賢帝最後の皇帝の時代に疫病にみまわれ、三世紀に入るといわゆる軍人皇帝の時代に入ります。
>> ローマはこのとき跡形もなくなって不思議はなかったのですが、30万のゴート族を打ち破って勢いに乗り、
>> 帝国を回復します。
>> そのごついにゲルマン民族移動によって国の半分を失うわけです。
>> 中国ではご存知長く続いた漢王朝が滅びます。
>> そのあと西晋がなんとか国をまとめますが、結局国の半分を異民族に奪われます。
>> 日本でも三国史記に残るように、この時代飢饉が頻発したようです。
>> 東北北部が北海道で成立した文化圏に取り込まれるのもほぼ同時期です。
>> 全世界的に古代から中世への混乱の時代と言えなくもないです。
どうもありがとうございます。
と言うことはやはり時代は、カリスマ的リーダーを必要とするときだったわけです。
わづかな、力でも国を立てることができる。
そして気がついたのは、大国主は医術の神でも有りましたね。
疫病を癒せるものは、また王にもなれると言うことではないでしょうか?
元の発言 [ Title妻木晩田 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月1日(木)09時43分44秒 ]
「めき」の訛りだろうかなぁ・・・
とかなんとか怪しんでいましたが,
サイトで調べても分かりませんでした。
ところで,
「牟岐(むぎ)町」という黒潮の観光の町が徳島海部郡にあり,
ここの観光スポットは,なんと,
「鬼ヶ岩屋温泉」「姫神祭」「杉王神社」
徳島だから,近所に,「イヤ温泉」「ミマ温泉」もあり。
・・・(^◇^)
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月5日(月)14時16分24秒 ]
>> >> 提案なんですけど、ほぼ同時期にベトナムあたりで
>> >> 栄えた通称国家をイメージしても悪くないと思うんですけど?
>> 「通称国家」? 通商のまちがいかな?
ごめんなさい間違いです。
>> >> また、衰退した理由も海外貿易の活きずまりだとするなら
>> >> 元の滅びたときの青森県十三湊の例をあげるなら理解しやすいのでは?
>> 通商国家なら出雲の方がやりやすい。
>> どうして朝鮮半島が見えない所に隠れるように国を作ったのか。
それはどうなのか?
先に上げた、十三湊も青森ですよ。
>> 妻木晩田人の心理を考えると逃げてきた集団と言う気がします。
どのような、理由でしょうか、教えてください。
>> >> あれは地震の被害より、アジアの通商政治体制変化に
>> >> 衰退の原因があるそうですね。
>> >> 当時の国際状況は、そのものずばり何では?
>> そのような可能性も無しとはいえませんが。
>> >>
>> >> >> >> >> 銅鐸が壊して廃棄された理由もうまく説明できます。
>> >> >> >> どうして?
>> >> >> 物宗教観の違う種族が襲来して畿内を占拠した証拠でしょう。
>> >> ちと違うのでは、同じ様な価値観を持っていても
>> >> 戦に破れれば同じようなことをした可能性は、大いに有ります。
>> >> と言うよりそのほうが可能性は高いかも?
>> 大陸や半島で動乱がある度に難民が日本列島にやってきた事は誰もが否定し得ないでしょう。
否定し様がありませんね
>> 中でもある人数がまとまればクニをつくり、周辺の原住民より優れた武器を持って収奪により労働をせずに貴族的生活を享受するわけです。
海を越えていきなり侵略は難しいと思いますが?
奪うだけで貢献の無い者は、持ったとして1代のみでしょう
外からの侵略の大義名分として申し分ないし、
そんな時内部からも、敵が出るのは間違いないのだから。
そうでなくても、自滅するのが落ちです。
スパルタだって、滅びるときは凄惨なものでしたでしょ。
>> 妻木晩田は 畿内と違って周辺の農耕可能な平野の広がりがありませんから発展できずに消えていった。
>> 先駆ヤマト国だった可能性があります。
可能性は否定しません。
発掘された日本列島2001で見ましたが、日本海側には、
いろんな民族がいたみたいだし。
>> >> >> >> で、割竹木棺が、江南にルーツがあるなんていうのは、
>> >> >> >> どうですか?
>> >> >> 四隅突出墓は甕棺でも割竹木棺でも無かったようですね。
>> >> >> 四隅突出墓のような特殊な墓制が日本に何の脈絡もなく突然現れ、忽然と消える。
>> >> >> 北朝鮮に四隅突出墓が見つかっている。
>> >> >> 四隅突出墓が日本に出現する時期の直前漢が半島に進出している。
>> >> >> これだけ状況証拠がそろっていればその関連は明らかでしょう。
>> >> まあ、一理有ると認めざる終えないと思いますね。
>> >> ですが時期尚早の嫌いは有ると思います。
>> 私には時期が恐ろしいくらいピッタリあっているように思えます。
むずかしいですね。
元の発言 [ Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月5日(月)13時36分01秒 ]
>> 海神国邪馬台の神といえば海蛇ですから蛇をお祭りする巫女である卑弥呼は実は蛇子だった。
>> と言うのはどうでしょう。
>> 古語で蛇は「pimi」とか「hemi」とか言っていたらしいですよね。
>> 古語はあまり詳しくは無いんで誰かフォローしてくれると有難いです。
>> よろしく。
ハミ・コていうわけでしょうか
蛇 子
方言で古語が残る地方のでなんでトっサに閃いたんですが。
蛇は、「ハミ」、「ハウ」の変化ですよね。
かなり無責任
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月5日(月)11時05分05秒 ]
>> これについてはいくつか意見のあるところでしょう。
>> 農耕を行っていたという意見もあります。
>> ただ広範囲の農業生産物に依存する、都市型集落ではあると思います。
都市と言うのはそれを支える農村があって初めて成り立つ物と思いますが。
>> >> また周囲を見渡しても妻木晩田の人口を支えるほどの平野がありません。
>> この集落は米子平野の中核集落ととらえることもできます。
弥生時代には米子平野は沼地や干潟だったという話があるようで農耕に適していなかったらしいです。
倉吉はどうなんでしょう。
>> 農地から遠いことで、かなり都市的な集落と評価できるでしょう。
>> お説の通り、米子平野のみならず、倉吉平野や、安木平野も勢力圏にあった可能性は高いです。
>> バイキングは単なる盗賊行為の場合には、それほど長期の拠点をもっていないのでは。
>> バイキングの築いた城などは、ヨーロッパ一円にありますが、それはその地域の政治的支配を行うケースでした。
>> なによりもこの遺跡、現在発掘された範囲でも、開始から消滅まで300年近くあります。
>> これは江戸幕府の継続期間よりも長いです。
>> ある程度の遺跡規模をもった期間でも、150年をかなり超えるようです。
>> これは鎌倉幕府の継続期間を大きく上回ります。
明らかに他の勢力による武力制圧が行われない状態で次第に衰えていくのですから比較は出来ないでしょう。
>> それだけの期間いわゆる盗賊行為のみで成り立っていったとは思えませんから、ここは地域一円の支配の拠点だったのではないでしょうか。
>> 政治的支配による収奪も、収奪のための仕組みの自己増殖により、やがてその重みに耐え切れず崩壊することがあります。
その意見は私も賛成できます。ただ頼みもしない渡来人がきて年貢を取ったとすれば、取られる方は強奪としか思わないでしょう。
>> 歴史時代の各王朝や、政権が一定期間で衰退する主因と考えられます。
>> 中国の王朝でも、西晋などはほんと短いですね。
>> 長いところで、前漢後漢合わせて400年。
中国の王朝交代は他民族などによる侵攻の為ですが妻木晩田は自然消滅のように見えます。
王朝の交代があったと言っても都市そのものが消えた訳ではありません。
>> 小暴力が連続する時代には、どこの世界でも人々は集まって、防御的なしゅうらくを作ります。
弥生時代の環濠集落程度だと大陸で戦闘を繰り返した騎馬民族(馬が無いから使いたくない言葉ですが(^^;)にとって
かえって収奪の目標にしやすかったのではないでしょうか?
>> バイキングの例では、本格的な中世社会の到来を告げ、城を中心とした分権的社会が訪れます。
>> しかし初期には極めて小規模でも、城を中心とした防御施設が認められます。
>> バイキング自体が集落を城に囲い込みます。
>> 散村といってもかなり印象が異なります。
>> 高地性集落の時代だとすると合いますが。
>> 古墳時代はその終わりですから。
>> また古墳の継続時間もまた、一般的な政治権力の継続期間ぐらいは充分にあります。
>> >> 四隅突出型墳丘墓をとってみれば妻木晩田では一世紀末位から四隅突出墓を作っている訳です。
>> >> 四隅突出墓の拡がりが日本海沿岸である事に注意を払うべきです。
>> 四隅突出型墳丘墓については、その文化要素の起源が大陸にあると考えています。
>> 最古の四隅突出型墳丘墓は広島県三次盆地にあり、紀元前に始まります。
>> 妻木晩田はこの伝統を継いでいるわけです。
>> その他の文化要素も、国内弥生文化の各要素が折り重なり、決してこの遺跡が突出したものではないことを示しています。
>> 弥生文化自体が大陸の影響下に誕生しているのですから、大陸起源の文化要素が見つかったから即其の時点での侵略者を想定することは出来ません。
なるほど四隅突出型墳丘墓が即半島人の到来を意味しない事は理解しました。
>> >> 北朝鮮で四隅突出墓が見つかっている事を無視して議論は出来ないでしょう。
>> これですが中国国境に近いところの話ですね。
>> 例の北朝鮮の前方後円墳のはなしと同じ調査ですよね。
>> これはどの程度評価が定まっているのでしょう。
>> 以下のような記事もありますが
>> http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2000/11/09/03.html
江上調査団は何をもって北朝鮮の墓を四隅突出墓の起源と判断したのでしょうね。
私は鵜呑みに信じてしまいましたが。
>> 四隅突出墓の文化要素の一部が大陸起源であるのは、ほとんどの人が見止るところのようですが、(私もそうです)
>> この形式の墳墓が最も多く、長い期間存在しているのは日本です。
>> 江の川の上流の住人が持ち込んだにしろ、土着化したぼせいが山陰に広まったものと思います。
>> >> 前方後円墳の起源はともかく、すべて日本発祥と考えるのはおかしいと思います。
>> >> 甕棺などアジアからインドまでの広がりを持っているのですから。
>> だれもそんなことは考えていません。
>> ただアレンジなしに丸ごと持ち込まれたとも思いません。
但し、農村と言うバックグランドなしに山の上に都市が作られたことは妻木晩田が他の弥生集落とは全く違う物である事を意味していると思います。
山の上ですから通商都市でもありえないのです。
元の発言 [ Re: ありました! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月5日(月)09時25分44秒 ]
>> まあ色々考えてみます、という話です。
>> 別段きまった話ではないですから。
そうそう。
本来「つまき」なら,
「爪木(つまぎ)」として薪用の小枝のある山とか。
聖域の東の「端(つま)」のほうにある山とか・・・
# 「あづま」に通じる言葉で,
# 日本武尊の件で「妻」を連想させます。
というワケで,以上は「つまき」説の視点から,,,(^^;
そんで,
本来「むき」なら,
日や遠景に「向く」という意から,
祭祀や展望台ふうの意味がなかったかどうか。
祭殿らしいのがある,ということなので。
展望台そのものは洞ノ原のようですが。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 11月5日(月)20時37分44秒 ]
>> >> 通商国家なら出雲の方がやりやすい。
>> >> どうして朝鮮半島が見えない所に隠れるように国を作ったのか。
>> それはどうなのか?
>> 先に上げた、十三湊も青森ですよ。
十三湊は日本海に面しています。
妻木晩田は美保湾の中、しかも山の上。通商には不向きです。
美保関の方ならまだ見込みがありますが。
>> >> 妻木晩田人の心理を考えると逃げてきた集団と言う気がします。
>> どのような、理由でしょうか、教えてください。
朝鮮半島が見えない場所と言うだけです。(^^;
向こうに怖いものがあったのではと。
>> >> 中でもある人数がまとまればクニをつくり、周辺の原住民より優れた武器を持って収奪により労働をせずに貴族的生活を享受するわけです。
>> 海を越えていきなり侵略は難しいと思いますが?
侵略の意図があってきたのではなく逃げてきたと。
来て見たら無防備な倭人達の集落があった。
九州では無理ですが畿内や鳥取ではありえた事じゃありませんか?
>> 奪うだけで貢献の無い者は、持ったとして1代のみでしょう
高句麗は東沃沮やワイから作物や女を出させて収奪していました。
三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
>> 外からの侵略の大義名分として申し分ないし、
>> そんな時内部からも、敵が出るのは間違いないのだから。
>> そうでなくても、自滅するのが落ちです。
当時の日本が半島北部に住んでいた種族にとって侵略するほど魅力があったとは思えません。
やむを得ず逃げてきた難民です。ですから九州や出雲のような先進地域に対して征服などは出来なかったでしょう。
自滅した理由は周囲から取るものが無くなって妻木晩田から出て行かざるを得なかった為では?
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)00時09分34秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
「paimbi」は何時頃の発音ですか?
地方によって言葉の違いもあったろうし、一種類だけで判断できないでしょう。
「ハモ鱧」なんかも「ヘミ」から来たものの可能性が強いし、卑弥呼が蛇子であった可能性は否定できないと思います。
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)07時48分03秒 ]
>> 「paimbi」は何時頃の発音ですか?
>> 地方によって言葉の違いもあったろうし、一種類だけで判断できないでしょう。
>>
>>
>> 「ハモ鱧」なんかも「ヘミ」から来たものの可能性が強いし、卑弥呼が蛇子であった可能性は否定できないと思います。
>>
>>
私が素人だからでたらめを言ってごまかそうとしていませんか?
http://www.petcomnet.com/back/hebi/hebi01.html
「日本の古語で、ヘビはへみ、倍美(ばみ)、久知奈波(くちなは)などと呼ばれています。マムシのことを、“はみ”とも言いますが、これは「咬む」に由来しています。」
干支の「巳」も「へみ」の「へ」が抜けたものでしょ?
マムシも多分「咬む(ハム)」が「マム」になって最後「マムシ」に変化したのだろうと思います。
私は「神」という言葉も「へみ」→「はみ」→「かみ(神)」と変化したのではないかと思っています。
「蛇足」ですが言葉は変化するものです。一通りでは無いと思います。
私はS40年くらいでさえ山一つ越えた隣の部落と違う言葉がいくつもある事を経験していますよ。
大論争 各位
古田史学の会インターネット事務局 横田
いつもお世話になっております。史料批判として最適な、次の三件を掲載いたしました。邪馬壹国をかってに邪馬台国と変えて理解してよいかという提起を、別の問題で提起しております。よろしくご査収下さい。
1『古田武彦全集第三巻』の発刊に伴い、
史料批判として親鸞の画期的な「流罪記録について」を掲載
(なお、この史料批判そのものは、次に出る第一巻でおこなっています。)
2『万葉集』巻一 第十三歌ー十四歌
「大和三山の歌(高山は畝傍雄々しと耳成と・・・)」の史料批判を掲載
(Quicq time VR 付)(英文なし)
3 『万葉集』巻三 二百四十四歌
「三吉野の御船の山に立つ雲の・・・」を掲載(英文なし)
またドメイン取得によりドリームネットはミラーサイトとなります。
ホームページ内検索mserchが可能なのは
www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html
のみです。
また今後『壬申大乱』(東洋書林)の万葉集の解説を掲載できましたら幸いです。
以上よろしくお願いいたします。
ちょっと長いので,分割してアップします
はじめに
10万年前に出アフリカを果した現代人はどのようなルートをたどってアジアにやって来たのだろうか.
一般には,アジア人の祖先はインドを経由して東南アジアに至り,一部はジャワ・スマトラ・ボルネオ(スンダ陸塊)からさらに海を越えてニューギニア・オーストラリア(サフール大陸)へ渡り,また一部は東アジアを北上してシベリアに至ったと考えられている.ここからさらにアラスカを経由して北米・南米大陸に移動していった人々もアジア人の近い親戚である.私は日本人を含む東アジア人の故郷がどこで,どんなルートで今住んでいる地域にやってきたのかに興味を持って何冊かの本を調べてみたが,すべての本が主要な経路を上記のように記述していた.
しかし私は,このルート(南回り説)は誤りではないか,むしろ東アジア人やアメリカ人の先祖は,アフリカを出て北へ進み,中央アジア北辺の,草原と森林が接するあたりを東へ進んで太平洋岸へやってきたのではないか(北回り説),という着想を得た.そして,いったんこの新しいパラダイムの変換を行うと,この考えがアジアの人類集団の状況を非常にうまく説明できると確信するに至った.
元の発言 [ アジア人は北回りでやって来た ] お名前 [ EK ] 日付 [ 11月6日(火)12時27分28秒 ]
専門の研究者の間で南回り説が定説化しているのには,もちろん理由がある.
1.ほんのしばらく前までは,アジア人は100万年前にジャワに住んでいたホモ・エレクトスの末裔であるという,いわゆる現代人の多地域進化説が多くの支持を得ていた.多地域進化説は進化学の知見からはまったく成り立ちようがないので,今となってはなぜこの奇妙な説が定説の地位を占めていたのか不思議である.ただ,これは究極の南回り説に他ならず,アジア人は北回りでやってきたかもしれないという異説が提出される余地はあまりなかったのだ.
2.DNAの分析によっても,アジア人とオーストラリア人は近い関係にあるというデータがいくつも提出されている.オーストラリア人は6万年前という古い時代にあの大陸に渡ったほんの少数の人々の子孫であると考えられている.当時は寒冷期にあたっており,オーストラリアとニューギニアは一つの大陸となっていたので,ニューギニアの人々とも近い関係にある.彼らが北回りでやってきたとは到底考えられないので,彼らと近い関係にあるという結果が出ている東南アジア人も,そして東南アジア人と近い関係にある東北アジア人も南回りでやって来た人々の子孫であると考えるのにまったく支障はない.
3.東北アジア人は寒冷な気候への適応が進んでいる.特殊化した東北アジア人からより一般的な形質を残す東南アジア人への進化は考えられない.やはりアジア人は南から北へと進んだと考えるのが合理的である.
元の発言 [ アジア人は北回りでやって来た ] お名前 [ EK ] 日付 [ 11月6日(火)12時27分28秒 ]
しかし,南回り説と合致しないデータもいくつもあるのだ.北回り説を念頭において,以下の問題を考えてほしい.
1.はっきり現代人のものとわかる遺跡は,シベリアで3万5千年前,中国で2万5千年前,日本で2万年前である.先入観を持たずにこれらの遺跡を結べば,これが東アジア人の足取りだという結論に達するはずだ.このように,東アジアに関しては南回り説より北回り説の方がよく状況を説明できる.東南アジアの大陸部は,現在住んでいる人々とつながる文化はせいぜい1万年前といわれている.北回りのアジア人はほんの1万年前に,やっと東南アジアに到達したのではないか.もちろん東南アジアには3万年より古い遺跡もあるが,その頃既に南回りでやって来た人々がこの地にいたのだから,あって当然だ.
2.宝来聡はミトコンドリアのD環と呼ばれる部分のDNAを分析し,日本人には非常に古い時代に分岐した2つのグループがあることを報告している.宝来はこの2つのグループを縄文系と弥生系に該当するのではないかという予想をたてて調査をするが,縄文系の代表として調査した沖縄人がほとんど全て弥生系と想定したグループに含まれるという結果になり,予想はみごとに外れてしまった.しかしこの2大グループは日本人以外の東アジア人・東南アジア人にも見られる.宝来はこの分岐の年代を12万年前と算出している.出アフリカよりも古い時代だ.これはアジア人には南回りでやって来た人々と北回りやって来た人々がいる,という考えを示唆している(私はさらに,大野晋が主張している日本語とタミール語の深い関係を思い起こす).
3.私が北回りという着想を得たのは,東アジア人が薄い色の肌を持っているからだ.もともとアフリカを出たばかりの人々の肌は黒かったろうから,南アジアを経由して東南アジアに到達した人々は黒い肌をしていたに違いない.黒い肌は低緯度地方では適応的であるから,淘汰にも有利に働くだろう.現在もインド・バングラデシュ・ニューギニアといった地方に住む人々,さらに人口は少ないがベンガル湾のアンダマン諸島からフィリピンにかけて住んでいるネグリトと呼ばれる人々は黒い肌をしており,南回りでやってきたと考えられる.しかし,現在東アジア・東南アジアに住む薄い肌の色をした人々が南回りでやってきたとすれば,彼らはどこでこの肌色を進化させたのだろうか.東南アジアのような低緯度地域では黒い肌のほうがずっと適応的であり,薄い色の肌を進化させる理由は全くない.今は絶滅してしまったタスマニア人は黒い肌のままであったから,南緯40度を越える地方に多分2万年ほども住んでいても,白い肌を進化させる必要がなかったのは明白である.タイやマレーの人々はいったんシベリアへ北上し,高緯度地方で薄い肌色を獲得して,再び南へ戻ってきたのだろうか.
元の発言 [ アジア人は北回りでやって来た ] お名前 [ EK ] 日付 [ 11月6日(火)12時27分28秒 ]
以上のように,南回り説には問題が多い,しかしそれでは従来南回り説で矛盾なく説明できていた諸点は,北回り説ではどう説明できるのだろうか.
1.まず第一に,現代人の多地域進化説は成立する余地がないことを確認しておきたい.分子生物学は様々な人種に属する現代人のミトコンドリアDNAの解析によって,すべての現代人の母系の先祖が15万年前に東アフリカに住んでいた一人の女性であることを明らかにした.この女性にはミトコンドリアのイブという名前が与えられている.この結果,アジア人の先祖はせいぜい10万年程前にアフリカを後にしたということが明らかになった.しかし,このイブ仮説が広く受け入れられた段階でも,アジア人の南回り説は,その基盤が全く失われたにもかかわらず,意識的に再検討された様子はない.パラダイムの変換は常にたいへん困難である.
2.DNAの分析から,オーストラリア人は東南アジア人と近い関係であると考えられる点について.この問題に関して多く引用されている根井正利の研究を見てみよう.根井は遺伝子多型の出現頻度を26の人類集団ごとに統計的に比較して,集団間の近さを計り,分岐図を作成した.その結果は以下のとおりである.
a.アフリカ諸族の間では多くの枝分かれがあるが,アフリカ以外の人類集団を含まない大きな枝としてまとめることができる.
b.アフリカ諸族以外の枝は,さらに[ニューギニア人・オーストラリア人,東南アジア人,太平洋諸島民]のグループと[ヨーロッパ人,東北アジア人,極北のアジア人,アメリカ人]のグループに分かれるが,アフリカ諸族と比較すると相違は55%程度である.
c.[ニューギニア人・オーストラリア人,東南アジア人,太平洋諸島民]のグループはさらに[ニューギニア人・オーストラリア人]と[東南アジア人,太平洋諸島民]のグループに分かれ,アフリカ諸族と比較すると相違は50%程度である.つまり,ヨーロッパ人を含む北方のグループと分岐した直後にこの2つのグループが分岐したと考えられる.
d.さらに東南アジア人と太平洋諸島民が,アフリカ諸族との相違と比較して25%程度で分岐している.
e.[ヨーロッパ人,東北アジア人,極北のアジア人,アメリカ人]のグループでは,[ヨーロッパ人]と,[東北アジア人,極北のアジア人,アメリカ人]のグループが,アフリカ諸族とは50%の相違で分岐する.単純に年代を当てはめれば7万5千年前である.
f.[東北アジア人,極北のアジア人,アメリカ人]のグループは30%程度の相違で[東北アジア人,極北のアジア人]のグループとアメリカ人に分かれる.
g.最後に東北アジア人と極北のアジア人が25%の相違で分岐する.
この分岐モデルには,あきらかにおかしい点がある.我々東北アジア人から見て,[東南アジア人,太平洋諸島民]との分岐がヨーロッパ人との分岐より古い時代になっているのだ.タイ・マレー・ベトナム等の,日本人にかなり似た人々がヨーロッパ人より遠い親戚のはずはないから,このモデルは何かが間違っているのは確かだ.しかし,北回り説の観点からはこの分岐図はある真実を含んでいる.オーストラリア人が,ヨーロッパ人より遠い親戚になっている点だ.東南アジアは南回りの人々と北回りの人々が出会った場所だから当然混血が行われており,多分インドネシアには南回りの人々の遺伝子が大陸部に比べて相当濃密に分布しているのではないだろうか.この分析では,南回りの血を引く人々が「東南アジア人」として観測されていると考えれば,これは北回り説を支持する強力な研究結果である.根井が採用した分析手法は「人類集団」を先見的に想定して集団間の差異を検出しようとしているのだから,北回りの人々と南回りの人々が混血し,あるいはモザイク状に居住しているであろう東南アジアを一つのグループと考えることに大きな矛盾がある,という北回り説の立場からの問題提起にはまったく回答を与えることができないのだ.「人類集団」なるものを先見的に想定する根井の方法は,想定外のモデルには効果がないということだ.
これ以外の研究においても,オーストラリア人の位置は常に奇妙である.全ての確認した分岐図において,古い時代に他のアジア人と別れたはずのオーストラリア人が枝の先端で分岐しているのだ.「オーストラリア人はアジア人と近い人々だ」という結論が先にあって,それが分析結果に反映していることはないのだろうか.
3.寒冷な気候に適応した東北アジア人から,より一般的な形質を持つ東南アジア人への進化は考えられないという問題提起について.これは南回り説を前提にした立論ではなかろうか.寒冷地で進化したと考えられるヨーロッパ人も,熱帯型の長い手足を持っている.北回りでアジアにやって来た人々の多くがいわゆる寒冷地適応を受けていないとしても少しも不思議ではないだろう.むしろ寒冷地適応を受けた日本人の祖先が特別な集団だったのではないだろうか.
4.東アジアに黒い肌の遺伝子がまったく見られないという問題を考えてみよう.これは説明の非常に難しい問題だ.しかもこの問題は南回り説では北回り説よりもさらに説明が難しい.黒い肌の遺伝子はインド・バングラデシュ・ニューギニアに見られる.またインドネシアにもかなり濃密に分布している.これに対して,ビルマからベトナムにかけての東南アジア大陸部に住む人々は北回りの遺伝子を多く受け継いでいると思える.北回りの人々より早い時期に東南アジアにやって来た南回りの人々の遺伝子が,東南アジアから東アジアの温帯地方にかけて,まったく見られないのはなぜだろうか.私は提案をもっていないが,現象を説明するためには,以下のように考えるしかないだろう.
1)南回りでやって来た人々は東アジアの温帯地方には進出しなかった.彼らは温帯地方での生活に適した文化を身につけていなかったし,いずれにしても人口は非常に少なかったので,温帯に進出する圧力はほとんど無かった.もしかしたら,「アジアの旧人」とも呼ばれているマパ人がある程度の勢力を持っていて,彼ら現代人の進出を阻んでいたかもしれない.
2)東南アジアに住んでいた南回りの人々は,1万年前に北回りでやって来た人々に大陸部からは駆逐されてしまった.海を隔てたジャワやスマトラでは,混血が行われた.
元の発言 [ アジア人は北回りでやって来た ] お名前 [ EK ] 日付 [ 11月6日(火)12時27分28秒 ]
最後に,蓬莱の研究をもう少し詳しく調べてみよう.蓬莱が採用した手法は根井の手法とは異なり,一人ひとりデータを総当りで比較して個人を単位とする分岐図を作成する.そうすると,例えば一つの大きな枝が主として日本人から成り,別の枝は全体がオーストラリア人から成るといった枝分かれができる.理想的には,いくつかの民族の枝が合流して例えば「東アジア人」といったより大きな人間集団ができ,最終的に根井の分岐図と同じものが得られる.しかし蓬莱の現実の分岐図はこの理想とは程遠い形をしている.主として日本人を含む小さな枝(クラスター)があちこちにできる,日本人のクラスターの中にも様々な民族が入っている,という複雑な分岐図になっている.日本人のクラスターが何か所かにできるということは,日本人がいくつもの人間集団の移住によって成立したことを示していると考えることができる(ミトコンドリアDNAは母系でしか伝わらないので,混血によってももともとの出身集団の情報を失わないという大きな利点がある).蓬莱の研究からは人間集団の分岐によるすっきりした来歴は見えてこない.そして,これが現実に起こったことであろう.
私は,あたかも北回りのアジア人の先祖となる一集団が,例えば現在のモスクワあたりに突然現れ,東へと旅をしながら分岐を重ねて現在の様々な民族が出現したかのように記述してきたが,実はそれほど単純ではないのは当然のことだ.しかしそれでも,この単純化された分岐モデルがある意味で当てはまると考えて差し支えないのではないだろうか.なんと言っても,1万年前に農業革命が起こるまでは人口は圧倒的に少なかったのだ.10万年前にはほんの1万人とかせいぜい数万人がアフリカに住んでいたに過ぎないし,南回り・北回りを問わず,アジアに向けて旅立った人々も20人とから30人とかのグループが,何世代もの繁殖の後に新たな食料を求める必要が生じての結果であったろう.
(おしまい)
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)12時02分09秒 ]
>>
別に「pEmi」でもかまいませんよ。
その時中国人が「pEmi」という音を「卑彌」と記載しただけかもしれませんから。
魏人が倭人の発音をまったく誤り無く記載したとは思えなせん。
思うほうが馬鹿じゃないですか?
>> マムシも多分「咬む(ハム)」が「マム」になって最後「マムシ」に変化したのだろうと思います。
>> 私は「神」という言葉も「へみ」→「はみ」→「かみ(神)」と変化したのではないかと思っています。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 私はS40年くらいでさえ山一つ越えた隣の部落と違う言葉がいくつもある事を経験していますよ。
>>
>>
音韻法則もある程度はあるでしょう。
しかし、仲間内でしか通用しないような隠語がいつのまにかその地域の標準語ななっている事もあります。
たとえばある地方で「隅」のことを「クロ」と言いますが、方言だと指摘すると「ほんとう?」と信じられないようすだったりする。
「隅」→「炭」→「黒」とまあほんと駄洒落の世界ですが彼らは大真面目で標準語だと信じている。
「p」「h」「k」の転換なんて目じゃない。
鱧という魚を蛇と言う隠語を使って表しても何の不思議も無いわけです。
http://www.coara.or.jp/~sueyoshi/data03/hamo.html
によれば鱧の語源は「はむ」「かむ」ですね。
こ由来も駄洒落のようですが鱧が蛇に似ている事から来ている可能性は否定できないでしょう。
縄文の頃から蛇が信仰の対象になっていたので、言葉の分岐が出来ていなかったら「蛇」=「神」で、逆に「神」→「はみ」→「ぺみ」の変化をしたかもしれません。
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月6日(火)15時33分23秒 ]
卑弥呼の読みは「ヒミカ」で、日の甕(ミカ)。
そこで、筑後風土記にでてくる、甕依姫(ミカヨリヒメ)ではないか?
甕依姫は、荒ぶる神のため民が困っていたとき、祝(ハフリ)としたら、害がなくなった。
甕依姫は、筑紫の君の祖とある。
また、卑弥呼も甕依姫も、筑紫の女王であり、かつ卑弥呼が鬼道につかえたとあるが、…依姫というのは、巫女的な宗教的な崇拝を受けていたはず。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月5日(月)21時02分57秒 ]
>> 都市と言うのはそれを支える農村があって初めて成り立つ物と思いますが。
当然農村(小集落)の存在を前提にしています。
>> 弥生時代には米子平野は沼地や干潟だったという話があるようで農耕に適していなかったらしいです。
>> 倉吉はどうなんでしょう。
寺澤氏の"王権誕生"によると、米子平野は一つの大共同体群に挙げられています。
同書をみると近隣に弥生遺跡がかなり有るようです。
>> >> 農地から遠いことで、かなり都市的な集落と評価できるでしょう。
>> >> お説の通り、米子平野のみならず、倉吉平野や、安木平野も勢力圏にあった可能性は高いです。
>> >> バイキングは単なる盗賊行為の場合には、それほど長期の拠点をもっていないのでは。
>> >> バイキングの築いた城などは、ヨーロッパ一円にありますが、それはその地域の政治的支配を行うケースでした。
>> >> なによりもこの遺跡、現在発掘された範囲でも、開始から消滅まで300年近くあります。
>> >> これは江戸幕府の継続期間よりも長いです。
>> >> ある程度の遺跡規模をもった期間でも、150年をかなり超えるようです。
>> >> これは鎌倉幕府の継続期間を大きく上回ります。
>> 明らかに他の勢力による武力制圧が行われない状態で次第に衰えていくのですから比較は出来ないでしょう。
江戸幕府も鎌倉幕府も直接外部勢力の武力制圧を受けたわけではありません。
外圧はありますが政権崩壊ですよね。
ここも後述しますが卑弥呼政権成立による還境変化が原因とおもいます。
>> >> それだけの期間いわゆる盗賊行為のみで成り立っていったとは思えませんから、ここは地域一円の支配の拠点だったのではないでしょうか。
>> >> 政治的支配による収奪も、収奪のための仕組みの自己増殖により、やがてその重みに耐え切れず崩壊することがあります。
>> その意見は私も賛成できます。ただ頼みもしない渡来人がきて年貢を取ったとすれば、取られる方は強奪としか思わないでしょう。
だとしてもそれは政治支配ですね。
かりに全くの収奪のみで、行政が行われなかったとしたら、せいぜい1世代続くかどうかでしょう。
なんのメリットもない一方的収奪では、命がけの反乱を招いてしまいます。
>> >> 歴史時代の各王朝や、政権が一定期間で衰退する主因と考えられます。
>> >> 中国の王朝でも、西晋などはほんと短いですね。
>> >> 長いところで、前漢後漢合わせて400年。
>> 中国の王朝交代は他民族などによる侵攻の為ですが妻木晩田は自然消滅のように見えます。
>> 王朝の交代があったと言っても都市そのものが消えた訳ではありません。
王朝交代期には首都は焼かれることが多いですし、そのまま其の場所が廃墟になることは、世界史上頻発します。
>> >> 小暴力が連続する時代には、どこの世界でも人々は集まって、防御的なしゅうらくを作ります。
>> 弥生時代の環濠集落程度だと大陸で戦闘を繰り返した騎馬民族(馬が無いから使いたくない言葉ですが(^^;)にとって
>> かえって収奪の目標にしやすかったのではないでしょうか?
したがって後期の拠点集落には妻木晩田のような高地性集落が多いわけです。
>> 但し、農村と言うバックグランドなしに山の上に都市が作られたことは妻木晩田が他の弥生集落とは全く違う物である事を意味していると思います。
>> 山の上ですから通商都市でもありえないのです。
なんどもいいますが、農業地帯は周辺に広がっていたでしょう。
寺澤氏が大共同体群としているくらいですから、現在に残る集落遺跡も複数有るということでしょう。
山の上ですが妻木晩田の立地は通商都市として通るものです。
まず大山の麓にありますが、大山は中国山地の最高峰でありながら、日本海側に突出した地にあり、古くから日本海側を行く船の目印になっていたようです。
おそらくは海上の船が目指す港に向かう目印になっていたでしょう。
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/98-3.html
おそらくは朝鮮半島などと日本海航路の交易もここを通っていったでしょう。
山上の集落と言うのは、世界的にみるとそれほど不思議なものではありません。
というより古い集落は、丘や山の上にできるのが普通です。
お説にあったバイキングにゆかりのある、島国の例としてシチリアを挙げてみます。
この島はフェニキアにはじまり、ギリシャ、カルタゴ、ローマ、ゲルマン人、ビザンチン、イスラム、ノルマン、ドイツ、フランス、スペイン
と次々に支配を受けてきました。
海岸線には点々とノルマンの城が残ります。
印象的な集落が島中央部エンマにあります。
紀元前10世紀に遡る古い集落で、侵略により幾度も陥落しますが、再興され現在に至ります。
また海岸部のタオルミーナも断崖上の集落で、その背後にはさらに高い山の上に山上集落があります。
山上の要害に集落を作るのは、戦争状態がしばしば連続したことを意味しているのでしょう。
そのような集落が廃棄されなかったのは、同様の政治状況が長く続いたからでしょう。
ヨーロッパではかなりの割合での集落が山の上に発生します。
妻木晩田は日本における同様の立地であるとおもいます。
なぜこれが衰退するかと考えると、やはり世界的に見ると例外的な平和の到来を考えるのが自然とおもいます。
世が世であれば、妻木晩田は県庁所在地あたりに成っていても不思議ではありません。
山上集落の衰退は、やはり世界的に見て珍しい、城壁のない都市、平城京や平安京の成立と同様の文脈でとらえることが出来ます。
妻木晩田の衰退と、防御施設のない纒向遺跡の形成が並行してゆくあたりに、後世につながる、独特な形での倭国の形成を見ることができるとおもいます。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月5日(月)20時37分10秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私も中期まではそう思います。
しかし後期になると高地性集落ののろしの痕跡。
拠点集落自体が高地性になること。
などをみると戦争そのもの、社会の構造、などが一変したように思えるんです。
数百人から千人規模の集団戦を考えてもよいようにおもいます。
倭国乱ではこれが空前の規模の数千人規模の会戦などが合ったのではないか。
後期にはいって続いてきた争乱の最終到達点というか、同時代人が、これはいかん、何とかしなくては、という段階に達したのではないかとおもいます。
もっとも、後に雄略天皇が吉備の首長を殺しに、兵士80人を派遣した話を読むと自信がなくなりますが。
>> 兵站能力ですが、弥生後期の瀬戸内あたりはかなり評価できるとおもいます。
>> 三国史記に1000人単位の倭人が飢えて攻め込んできた話がありますが、水上では想像以上の兵站力があったのでは?
>>
>>
そうですか。
ところで以下のような話がありました。
朝日新聞です。
***********************************************************
弥生時代に“鎌状武器”、出土人骨の傷痕から推定 鳥取
鳥取県青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代の人骨に残っていた殺傷痕に、鎌(かま)状の武器でついたらしい
特殊な形のものがあることが、井上貴央・鳥取大学教授(解剖学)の研究でわかった。鎌のような薄刃で曲がった武器は
これまで知られておらず、今後の考古学的な検証が待たれそうだ。
「弥生時代のデパート」と呼ばれる同遺跡からは土器などのほか約5000点、少なくとも92体分の人骨が出た。う
ち約100点、10体分ほどの骨に武器による傷があった。
この中で井上さんは、ろっ骨に残るV字状の傷に注目した。背骨も調べ、ひとつの背骨の側面からその下にあった背骨
の上面に達した傷の存在にも気づいた。「剣などでなく、先の曲がった薄刃の武器を振り下ろしてできた傷と思える。鎌
のような形の武器とみるのが妥当だ」と話す。
やじりの刺さった傷と薄刃の武器による傷とが両方ある腰の骨も見つかった。「遠くから矢で倒し、接近して鎌状の武
器で切りつけるような戦い方だったのではないか。そう考えれば、ろっ骨に複数の傷があることも説明できる」と言う。
弥生時代の日本は中国の歴史書に「倭(わ)国大乱」と記されるなど戦乱が多かった。岡山大学の松木武彦・助教授
(考古学)は「弥生時代には多種類の武器が使われたが、鎌状の武器は見つかっていない。振り下ろすような回転運動を
伴う武器に戈(か)があるが、青谷上寺地遺跡の殺傷痕とは合わない。井上教授の指摘は、日常の道具を非常時に武器と
して使った可能性も含めて、さらに検討を進める必要がある」と話す。(07:12)
元の発言 [ Re: ありました! ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月5日(月)22時22分00秒 ]
こんなんでました。
********************************************************************************************************
※紀氏譜記
孝霊天皇は伯耆国妻木の郷に朝妻という美女のあることを聞かれ、これを宮女となし寵愛したが、朝妻は故郷に残した老母を養うために、暇を願って帰郷した。天皇は朝妻への
慕情たちがたく、あとを追って伯耆国孝霊山へ臨幸され、淀江の灘より清浄の石を運んで山上に宮殿を建て、ここで若宮が誕生した。名を鶯王という。しばらくあって天皇は、日
野郡の鬼住山に悪鬼が住して人民を悩ます由を聞かれ、鶯王を大将として鬼退治に向かわせ、ことごとくこれを打ち従えたが、鶯王もこの地で戦死した。楽々福大明神はその鶯
王の霊を祭るという。孝霊天皇は「御丈七尺、御面躰青く、面頭には三尺の角あり。飛行自在の天皇なり」。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月5日(月)22時29分10秒 ]
>> 高句麗は東沃沮やワイから作物や女を出させて収奪していました。
>> 三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
あんまり無茶苦茶言わない方がいいですよ。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月6日(火)19時10分55秒 ]
とっても良いサイトをご紹介いただき、ありがとうございました。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)20時30分35秒 ]
兵農分離を最初にやったのは織田信長でしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月6日(火)16時27分02秒 ]
>> 寺澤氏の"王権誕生"によると、米子平野は一つの大共同体群に挙げられています。
>> 同書をみると近隣に弥生遺跡がかなり有るようです。
当然あるでしょうね。無ければバイキングも飢え死にですから。
>> >> >> 農地から遠いことで、かなり都市的な集落と評価できるでしょう。
>> >> >> お説の通り、米子平野のみならず、倉吉平野や、安木平野も勢力圏にあった可能性は高いです。
>> 江戸幕府も鎌倉幕府も直接外部勢力の武力制圧を受けたわけではありません。
>> 外圧はありますが政権崩壊ですよね。
>> ここも後述しますが卑弥呼政権成立による還境変化が原因とおもいます。
鎌倉も江戸も無くなった、人が住まなくなったわけではないです。
妻木晩田の人は何故、何処に言ったのでしょう。
>> >> >> それだけの期間いわゆる盗賊行為のみで成り立っていったとは思えませんから、ここは地域一円の支配の拠点だったのではないでしょうか。
>> >> >> 政治的支配による収奪も、収奪のための仕組みの自己増殖により、やがてその重みに耐え切れず崩壊することがあります。
>> >> その意見は私も賛成できます。ただ頼みもしない渡来人がきて年貢を取ったとすれば、取られる方は強奪としか思わないでしょう。
>> だとしてもそれは政治支配ですね。
>> かりに全くの収奪のみで、行政が行われなかったとしたら、せいぜい1世代続くかどうかでしょう。
>> なんのメリットもない一方的収奪では、命がけの反乱を招いてしまいます。
反乱の防御の意味もあって山の上に都市を築いたと考えています。
>> >> 中国の王朝交代は他民族などによる侵攻の為ですが妻木晩田は自然消滅のように見えます。
>> >> 王朝の交代があったと言っても都市そのものが消えた訳ではありません。
>> 王朝交代期には首都は焼かれることが多いですし、そのまま其の場所が廃墟になることは、世界史上頻発します。
でも妻木晩田では焼かれもせず次第に人が減って消えたのです。
>> したがって後期の拠点集落には妻木晩田のような高地性集落が多いわけです。
そうなんですか?
>> なんどもいいますが、農業地帯は周辺に広がっていたでしょう。
>> 寺澤氏が大共同体群としているくらいですから、現在に残る集落遺跡も複数有るということでしょう。
ただ妻木晩田の人口と農民の口を支えるだけの農耕があったか疑問が持たれている訳でしょう?
>> 山の上ですが妻木晩田の立地は通商都市として通るものです。
>> まず大山の麓にありますが、大山は中国山地の最高峰でありながら、日本海側に突出した地にあり、古くから日本海側を行く船の目印になっていたようです。
>> おそらくは海上の船が目指す港に向かう目印になっていたでしょう。
>> http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/98-3.html
>> おそらくは朝鮮半島などと日本海航路の交易もここを通っていったでしょう。
>> 山上の集落と言うのは、世界的にみるとそれほど不思議なものではありません。
>> というより古い集落は、丘や山の上にできるのが普通です。
ライン川添の山の上にたって船の航行を見張って通行料を取った城みたいなものですかね。
確かにヨーロッパの都市は山の上が多いですね。
戦争が多かったからでしょう。
日本では珍しいです。
倭人の国としては妻木晩田が山の上で無ければならない必然性は無いのではないでしょうか?
>> お説にあったバイキングにゆかりのある、島国の例としてシチリアを挙げてみます。
>> この島はフェニキアにはじまり、ギリシャ、カルタゴ、ローマ、ゲルマン人、ビザンチン、イスラム、ノルマン、ドイツ、フランス、スペイン
>> と次々に支配を受けてきました。
>> 海岸線には点々とノルマンの城が残ります。
>> 印象的な集落が島中央部エンマにあります。
>> 紀元前10世紀に遡る古い集落で、侵略により幾度も陥落しますが、再興され現在に至ります。
>> また海岸部のタオルミーナも断崖上の集落で、その背後にはさらに高い山の上に山上集落があります。
>> 山上の要害に集落を作るのは、戦争状態がしばしば連続したことを意味しているのでしょう。
>> そのような集落が廃棄されなかったのは、同様の政治状況が長く続いたからでしょう。
>> ヨーロッパではかなりの割合での集落が山の上に発生します。
>> 妻木晩田は日本における同様の立地であるとおもいます。
>> なぜこれが衰退するかと考えると、やはり世界的に見ると例外的な平和の到来を考えるのが自然とおもいます。
>> 世が世であれば、妻木晩田は県庁所在地あたりに成っていても不思議ではありません。
>> 山上集落の衰退は、やはり世界的に見て珍しい、城壁のない都市、平城京や平安京の成立と同様の文脈でとらえることが出来ます。
>> 妻木晩田の衰退と、防御施設のない纒向遺跡の形成が並行してゆくあたりに、後世につながる、独特な形での倭国の形成を見ることができるとおもいます。
妻木晩田が後世にその影響を残したかと言うとそれが見えない。
それに都市が自然消滅するのは何処でも気象変動とかオアシスの泉が枯れるとかそう言った問題が発生した時だと思います。
いったい何が起きたのでしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)20時30分35秒 ]
>>
>>
>>
>> 私も中期まではそう思います。
>>
>>
>>
>>
その点、面白そうでは有りますね。
>> しかし後期になると高地性集落ののろしの痕跡。
>> 拠点集落自体が高地性になること。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
農具自体が武器に使われていること、
それも結構威力が大きいことを、忘れていますね。
後には、それが世紀の武器に使われる例すら出ていることをお忘れだ。
>> などをみると戦争そのもの、社会の構造、などが一変したように思えるんです。
>> 数百人から千人規模の集団戦を考えてもよいようにおもいます。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
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>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
戦国時代を見て考えるべきなのでは?
1.この時代でも戦国時代でも、米1万石に兵200名でよかったんでしたっけ?ちょっと忘れてしまったけど。
これは変わらないでしょう。
2.ただし、生産力は大幅に低いからこれにあわせることになるけど。
3.戦国時代も、ほとんどが、農民兵であったこと。
4.釈迦のいた時代に、インドでも王政でなくギリシャのポリスのような
国々があったことを聞きました。
こんな形の国民皆兵的国も有ったのかも。
これは、余計でしたね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 倭国乱ではこれが空前の規模の数千人規模の会戦などが合ったのではないか。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
いくつか抜けています。
この時代でも、狩は重要な食料調達方であることです。
落とし穴や罠を除き、現代にも伝わるマタギの方々ような領だって行われていたでしょう。
これは、立派な軍事教練だと思いますけど。
狩自体に参加すること自体が教練になったのでは?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 後期にはいって続いてきた争乱の最終到達点というか、同時代人が、これはいかん、何とかしなくては、という段階に達したのではないかとおもいます。
>>
>> もっとも、後に雄略天皇が吉備の首長を殺しに、兵士80人を派遣した話を読むと自信がなくなりますが。
それは、大将一人に約80名の兵員ということでしょう。
吉備に着くまでに、あちらの豪族から一人こちらの豪族からは10人
こんな風に集めながら膨れ上がっていくんです。
最後の目的地に着くまでに何人になっているやら?
もっとも協力しない豪族はその場で潰してしまうんですけどね。
>>
>>
>>
>> そうですか。
>>
>>
>>
>>
>> ところで以下のような話がありました。
>>
>>
おにりんさん らしくもない、ホンとに鎌を使ったか、
カ(すいません字が出ないので)を使ったか、戟または類似の武器に決まっている。
いけないもうひとつ有った。
逆刃の剣か刀に類するものでしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月1日(木)20時53分30秒 ]
>> 妻木晩田遺跡は弥生後期には衰え、古墳時代には消滅してしまうんですが。
>> 投馬国に比定するのは無理がありませんか?
一応,サイトで調べたら次のようでした。
妻木晩田遺跡の全貌(佐古和枝氏)/弥生の前・弥生の後
http://www.town.daisen.tottori.jp/site/page/muki/all/outline/yayoi/
「妻木晩田遺跡は、弥生時代だけではありません。」
(「」内引用)
----
というわで,弥生時代以前の縄文時代は縄文人の狩り場,
弥生時代に続く古墳時代(特に6〜7世紀)は古墳の宝庫,
だそうです。
# なんとく大山祇神を連想。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月6日(火)19時10分55秒 ]
>> >> 高句麗は東沃沮やワイから作物や女を出させて収奪していました。
>> >> 三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
>> あんまり無茶苦茶言わない方がいいですよ。
魏志高句麗伝より
「無良田、雖力佃作、不足以實口腹。・・中略・・其人性凶急、・・中略・・習戰闘、沃沮、東ワイ皆屬焉。」
私は高句麗は沃沮やワイを支配し、食料、奴隷、女の調達をしていたと解釈するんですが、違いますか?
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)19時40分46秒 ]
>> 別に「pEmi」でもかまいませんよ。
>>
>>
>>
>>
だからそんなに正確に音韻を記述したとは思えない。
高句麗を下句麗と書かせた事もあるんだし。
「pEmi」だと言ったのはおにりんさんですよ。
>> その時中国人が「pEmi」という音を「卑彌」と記載しただけかもしれませんから。
>> 魏人が倭人の発音をまったく誤り無く記載したとは思えなせん。
>> 思うほうが馬鹿じゃないですか?
>>
>> 音韻法則もある程度はあるでしょう。
>> しかし、仲間内でしか通用しないような隠語がいつのまにかその地域の標準語ななっている事もあります。
>>
>>
>>
>>
>> たとえばある地方で「隅」のことを「クロ」と言いますが、方言だと指摘すると「ほんとう?」と信じられないようすだったりする。
>> 「隅」→「炭」→「黒」とまあほんと駄洒落の世界ですが彼らは大真面目で標準語だと信じている。
>> 「p」「h」「k」の転換なんて目じゃない。
>>
>> 縄文の頃から蛇が信仰の対象になっていたので、言葉の分岐が出来ていなかったら「蛇」=「神」で、逆に「神」→「はみ」→「ぺみ」の変化をしたかもしれません。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
おにりんさんの厳密な音韻法則には反しているかも知れませんが、母音が似ていて同じ尊敬の対象になる物なら混同してしまうなんて事はありうるでしょう。
おにりんさんが何と言おうと駄洒落とか、幼児語といった感じで言葉が変遷する事は否定できないと思いますよ。
私は可能性のことを言っているので決め付けているのではない。
(単なる思い付きのネタですけどね。)
記録の無い2000年も前の事を全て知っているかのような言い方は専門家と言っても信用できませんね。
専門家と言っても記録や証拠の無い事は普通おにりんさんのような言い方で決め付けはしないと思いますが。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)23時50分18秒 ]
>>
>> 戦国時代を見て考えるべきなのでは?
>>
>>
>>
>>
それを言えば、戦国時代のほうが厳しいんでは、同じようなものでしょ。
拠点に守備隊が居るのは当然、織田信長でも、
桶狭間のときに、すべて動員して出陣したわけじゃない。
場所により当然残るものも居たのだから
>>
>>
>>
>>
>>
それは、当然だと思いますよ。基本的には。
ですが、そうですかね?
戦いは、儀式でもあったわけですから、場所を決めて全員出てなぐあいだったかも。
特定な場合意外では、非常に道徳的と言おうか?
何と言おうか、犠牲を減らすルール的なものが、発達していますからね。昔は!
>> 狩自体に参加すること自体が教練になったのでは?
>>
些細な話でしょうか・
巻きがりや鷹狩が重要な軍事教練だったことは記録で明らかでしょうに。
小部隊のリーダーは、その中心人物で、
その人物を束ねる仕組みが合ったと考えると言えると言うのが結論でしょうに。
>> こんな風に集めながら膨れ上がっていくんです。
>> 最後の目的地に着くまでに何人になっているやら?
>>
>>
考古学的には、ちょっと見えないでしょうね。
でも、そうだからこそこの記述は、信用できるのでは?
何千何万も派遣したとの記入は、眉唾でしょうが、
80人では、事実を記入したと考えてもよいと。
またそのようなことが、当然だと認識されていたと言うことでしょう。
そして、生産力に合った動因と言う証明でしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月6日(火)21時39分24秒 ]
>> >> >> 高句麗は東沃沮やワイから作物や女を出させて収奪していました。
>> >> >> 三国の頃、高句麗は自国内で作物は取れず他国から収奪する以外成り立たない国だったのです。
>> >> あんまり無茶苦茶言わない方がいいですよ。
>> 魏志高句麗伝より
>> 「無良田、雖力佃作、不足以實口腹。・・中略・・其人性凶急、・・中略・・習戰闘、沃沮、東ワイ皆屬焉。」
>> 私は高句麗は沃沮やワイを支配し、食料、奴隷、女の調達をしていたと解釈するんですが、違いますか?
足りないという話と取れないという話は違いますが。
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月7日(水)08時03分39秒 ]
>> おにりんさんの厳密な音韻法則には反しているかも知れませんが、母音が似ていて同じ尊敬の対象になる物なら混同してしまうなんて事はありうるでしょう。
>>
>> おにりんさんが何と言おうと駄洒落とか、幼児語といった感じで言葉が変遷する事は否定できないと思いますよ。
>>
>>
>>
そういえば「久知奈波」なんてぇのも完全に駄洒落としか思えない。
音韻法則はどこにあるんですか?
>>
>>
>>
>>
>>
全部デタラメなんて言いませんよ。
日本人の書いた日本語は八世紀にしかないので500年前のことは正確には判らないだろうと言っているのです。
>>
>>
>>
私にとっては1兆分の1でも可能性があればいいのです。
「倭國亂、相攻伐歴年」の結果、一人の女王が共立された。
竜神信仰をもった倭人たちの国々の統合の象徴として「蛇子」または「蛇王」はまことにふさわしいと考えるのです。
>> 専門家と言っても記録や証拠の無い事は普通おにりんさんのような言い方で決め付けはしないと思いますが。
>>
>>
魏志倭人伝に載っている倭語はたった100語足らず。
しかも倭人が書いたものではない。
そこそこの対比は取れても全て判る筈は無いでしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月6日(火)21時19分32秒 ]
>>> >> >> >> 農地から遠いことで、かなり都市的な集落と評価できるでしょう。
>> >> >> >> お説の通り、米子平野のみならず、倉吉平野や、安木平野も勢力圏にあった可能性は高いです。
>> >> 江戸幕府も鎌倉幕府も直接外部勢力の武力制圧を受けたわけではありません。
>> >> 外圧はありますが政権崩壊ですよね。
>> >> ここも後述しますが卑弥呼政権成立による還境変化が原因とおもいます。
>> 鎌倉も江戸も無くなった、人が住まなくなったわけではないです。
>> 妻木晩田の人は何故、何処に言ったのでしょう。
妻木晩田の近くには山陰最大の古墳群があります。
古墳時代の社会構造として、古墳とその近くの豪族居館の組み合わせが想定されています。
豪族居館あとは、発見が難しいのでほとんど見つかってはいませんが、墓だけがあったとは考えられません。
したがって、社会構造の変化に伴って、戦時には重要だった山の上から、平地に居住区が移ったと考えるのが自然でしょう。
>> >> >> >> それだけの期間いわゆる盗賊行為のみで成り立っていったとは思えませんから、ここは地域一円の支配の拠点だったのではないでしょうか。
>> >> >> >> 政治的支配による収奪も、収奪のための仕組みの自己増殖により、やがてその重みに耐え切れず崩壊することがあります。
>> >> >> その意見は私も賛成できます。ただ頼みもしない渡来人がきて年貢を取ったとすれば、取られる方は強奪としか思わないでしょう。
>> >> だとしてもそれは政治支配ですね。
>> >> かりに全くの収奪のみで、行政が行われなかったとしたら、せいぜい1世代続くかどうかでしょう。
>> >> なんのメリットもない一方的収奪では、命がけの反乱を招いてしまいます。
>> 反乱の防御の意味もあって山の上に都市を築いたと考えています。
収奪行為だけでは、取られる側もやがて防御し反抗してきます。
効果的に収奪するには、行政を施し、支配される側をある程度まで納得させる必要があるでしょう。
お説のような全く支配手段をとらない略奪集団が、100年を超える長期にわたって成立した例を教えてください。
>> >> >> 中国の王朝交代は他民族などによる侵攻の為ですが妻木晩田は自然消滅のように見えます。
>> >> >> 王朝の交代があったと言っても都市そのものが消えた訳ではありません。
>> >> 王朝交代期には首都は焼かれることが多いですし、そのまま其の場所が廃墟になることは、世界史上頻発します。
>> でも妻木晩田では焼かれもせず次第に人が減って消えたのです。
社会変化により、山上集落の立地が不要になったせいでしょう。
>> >> したがって後期の拠点集落には妻木晩田のような高地性集落が多いわけです。
>> そうなんですか?
王権の誕生によると
安満山→古曾部・芝谷
池上・曽根→観音寺山
坪井/喜志→寛弘寺
の例が挙がっています。
他の本でも本州側では一般的挙動のように書かれています。
>> >> なんどもいいますが、農業地帯は周辺に広がっていたでしょう。
>> >> 寺澤氏が大共同体群としているくらいですから、現在に残る集落遺跡も複数有るということでしょう。
>> ただ妻木晩田の人口と農民の口を支えるだけの農耕があったか疑問が持たれている訳でしょう?
遺跡の極周辺に限ればの話ですね。
米子平野全体の話ではない。
>> >> 山の上ですが妻木晩田の立地は通商都市として通るものです。
>> >> まず大山の麓にありますが、大山は中国山地の最高峰でありながら、日本海側に突出した地にあり、古くから日本海側を行く船の目印になっていたようです。
>> >> おそらくは海上の船が目指す港に向かう目印になっていたでしょう。
>> >> http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/98-3.html
>> >> おそらくは朝鮮半島などと日本海航路の交易もここを通っていったでしょう。
>> >> 山上の集落と言うのは、世界的にみるとそれほど不思議なものではありません。
>> >> というより古い集落は、丘や山の上にできるのが普通です。
>> ライン川添の山の上にたって船の航行を見張って通行料を取った城みたいなものですかね。
>> 確かにヨーロッパの都市は山の上が多いですね。
>> 戦争が多かったからでしょう。
>> 日本では珍しいです。
>> 倭人の国としては妻木晩田が山の上で無ければならない必然性は無いのではないでしょうか?
まさに其の時代まで戦争が多かったのでしょう。
恐らく継続的に小紛争があったのでしょう。
それが古墳時代と共に、戦争の性質が変わった。
あるいは戦争で守るべきものが変わったと考えます。
>> >> お説にあったバイキングにゆかりのある、島国の例としてシチリアを挙げてみます。
>> >> この島はフェニキアにはじまり、ギリシャ、カルタゴ、ローマ、ゲルマン人、ビザンチン、イスラム、ノルマン、ドイツ、フランス、スペイン
>> >> と次々に支配を受けてきました。
>> >> 海岸線には点々とノルマンの城が残ります。
>> >> 印象的な集落が島中央部エンマにあります。
>> >> 紀元前10世紀に遡る古い集落で、侵略により幾度も陥落しますが、再興され現在に至ります。
>> >> また海岸部のタオルミーナも断崖上の集落で、その背後にはさらに高い山の上に山上集落があります。
>> >> 山上の要害に集落を作るのは、戦争状態がしばしば連続したことを意味しているのでしょう。
>> >> そのような集落が廃棄されなかったのは、同様の政治状況が長く続いたからでしょう。
>> >> ヨーロッパではかなりの割合での集落が山の上に発生します。
>> >> 妻木晩田は日本における同様の立地であるとおもいます。
>> >> なぜこれが衰退するかと考えると、やはり世界的に見ると例外的な平和の到来を考えるのが自然とおもいます。
>> >> 世が世であれば、妻木晩田は県庁所在地あたりに成っていても不思議ではありません。
>> >> 山上集落の衰退は、やはり世界的に見て珍しい、城壁のない都市、平城京や平安京の成立と同様の文脈でとらえることが出来ます。
>> >> 妻木晩田の衰退と、防御施設のない纒向遺跡の形成が並行してゆくあたりに、後世につながる、独特な形での倭国の形成を見ることができるとおもいます。
>> 妻木晩田が後世にその影響を残したかと言うとそれが見えない。
上淀廃寺などもありますし、淀江の地名からしても、この地域は律令期に至るまで、対大陸向け外港として機能していたとおもいます。
カラ山などの地名もそれを物語っています。
>> それに都市が自然消滅するのは何処でも気象変動とかオアシスの泉が枯れるとかそう言った問題が発生した時だと思います。
>> いったい何が起きたのでしょう。
都市が自然消滅すのは、自然現象であれ、経済現象であれ、政治現象であれ、其の立地のメリットがなくなったときです。
したがって、自然環境の変化、交易路の変化、生産活動の変化、政治環境の変化によって、集落は放棄されます。
小さな紛争が、広域権力によって押さえられ、戦争の質も
部族ごとの命運をかけた戦いから、
支配階級同士の権力闘争に変化したからではないでしょうか。
一族丸ごと山の上に住む必要がなくなったのでしょう。
基本的には平和になったということでしょう。
これは前回既述した通りですが。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月7日(水)09時31分00秒 ]
>> >> 魏志高句麗伝より
>> >> 「無良田、雖力佃作、不足以實口腹。・・中略・・其人性凶急、・・中略・・習戰闘、沃沮、東ワイ皆屬焉。」
>> >> 私は高句麗は沃沮やワイを支配し、食料、奴隷、女の調達をしていたと解釈するんですが、違いますか?
>> 足りないという話と取れないという話は違いますが。
確かに。
でも自分たちの人口を養えるだけの食料生産が出来無かったことは事実で、沃沮やワイから武力をもって奪っていたのです。
東沃沮伝では美女まで差し出させて妾にしていたとも書いてある。
沃沮やワイは高句麗から何か便宜をもらっていたのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は蛇子 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)09時45分15秒 ]
>> 魏志倭人伝に載っている倭語はたった100語足らず。
100→50語足らず。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月1日(木)20時53分30秒 ]
>> 妻木晩田遺跡は弥生後期には衰え、古墳時代には消滅してしまうんですが。
>> 投馬国に比定するのは無理がありませんか?
>> m(_ _)m
えーとだからどこの遺跡の話ですか?
下記参照
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)10時10分24秒 ]
>> >> >> 魏志高句麗伝より
>> >> >> 「無良田、雖力佃作、不足以實口腹。・・中略・・其人性凶急、・・中略・・習戰闘、沃沮、東ワイ皆屬焉。」
>> >> >> 私は高句麗は沃沮やワイを支配し、食料、奴隷、女の調達をしていたと解釈するんですが、違いますか?
>> >> 足りないという話と取れないという話は違いますが。
>> 確かに。
>> でも自分たちの人口を養えるだけの食料生産が出来無かったことは事実で、沃沮やワイから武力をもって奪っていたのです。
>> 東沃沮伝では美女まで差し出させて妾にしていたとも書いてある。
>> 沃沮やワイは高句麗から何か便宜をもらっていたのでしょうか?
そもそも武力をもって奪っていたとはどこにも書かれていません。
沃沮やワイは服属していたというだけでしょう。
この場合沃沮やワイはそれなりの政治対象で、貢がせていたととるべきでしょう。
逆に侵略を受けたときには、高句麗が後ろ盾になるわけです。
支配は受ける側にもメリットがあり、なければ反乱をおこします。
重要なことは高句麗はそれなりの生業をもって生長し、力をもってから他民族の支配に向かったということです。
其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。下戸遠擔米糧魚鹽供給之。
いったいどこをどう読めば全くの盗賊国家であったような結論が出てくるのでしょう。
元の発言 [ Re: Title卑弥呼は甕依姫 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 11月6日(火)19時47分13秒 ]
>>
「呼」の読みですが、対海國などに大官として「卑狗」がありますが、これは“ヒコ”で異論はないでしょう。
とすると、“コ”には、「狗」があてられていることを考えれば、「呼」は“カ”でしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月7日(水)11時10分24秒 ]
>> そもそも武力をもって奪っていたとはどこにも書かれていません。
>> 沃沮やワイは服属していたというだけでしょう。
>> この場合沃沮やワイはそれなりの政治対象で、貢がせていたととるべきでしょう。
>> 逆に侵略を受けたときには、高句麗が後ろ盾になるわけです。
>> 支配は受ける側にもメリットがあり、なければ反乱をおこします。
>> 重要なことは高句麗はそれなりの生業をもって生長し、力をもってから他民族の支配に向かったということです。
>> 其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。下戸遠擔米糧魚鹽供給之。
>> いったいどこをどう読めば全くの盗賊国家であったような結論が出てくるのでしょう。
東沃沮伝
「其土地肥美、背山向海、宜五穀、善田種。人性質直彊勇、少牛馬、便持矛歩戰。」
沃沮人はかなり勇敢で戦うすべも知っていたようですね。
他国から守って貰わなくてもやって行けたのではないでしょうか?
あるいは国家としての纏まりに欠ける所があって高句麗に侵略されたのかもしれません。
いずれにしろ高句麗は「其土地肥美、背山向海、宜五穀、善田種。」を狙って侵略した事は間違いないでしょう。
沃沮人がまとまって抵抗すればあるいは追い返せた可能性はありますがそれが出来なかった。
高句麗は公孫氏滅亡の後、一時的に魏に従ったのに数年で魏に対して叛乱をおこしている。
この辺りを私は魏が沃沮やワイから収奪するのを禁止したためではないかと推測しています。
敵わないと判っていても高句麗にとっては飢え死にするか戦って死ぬかの選択だったのでしょう。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)12時08分45秒 ]
>> 東沃沮伝
>> 「其土地肥美、背山向海、宜五穀、善田種。人性質直彊勇、少牛馬、便持矛歩戰。」
>> 沃沮人はかなり勇敢で戦うすべも知っていたようですね。
>> 他国から守って貰わなくてもやって行けたのではないでしょうか?
>> あるいは国家としての纏まりに欠ける所があって高句麗に侵略されたのかもしれません。
>> いずれにしろ高句麗は「其土地肥美、背山向海、宜五穀、善田種。」を狙って侵略した事は間違いないでしょう。
>> 沃沮人がまとまって抵抗すればあるいは追い返せた可能性はありますがそれが出来なかった。
支配下に入ったということは守る力がなかったということでしょう。
>> 高句麗は公孫氏滅亡の後、一時的に魏に従ったのに数年で魏に対して叛乱をおこしている。
>> この辺りを私は魏が沃沮やワイから収奪するのを禁止したためではないかと推測しています。
>> 敵わないと判っていても高句麗にとっては飢え死にするか戦って死ぬかの選択だったのでしょう。
反乱の理由について想像以外の根拠はありますか?
元の発言 [ 訂正 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)10時35分36秒 ]
私には、ついて行けない討論なのですが、素人なりに意地悪と思われる質問を一つ。
日本語では、母音と子音が色々なケースで置換してしまいます。
たとえば、稲日姫;イナヒ と読むらしいんですが、
インナミとも上古音では、イナピとも読めるようですね。
では、卑弥呼 ; ピミカであるのか、ある場合は、イミカかも知れませんよね。
この点は、如何想像できますか?
つまりは、この卑弥呼の字を当てた人が如何聞いたかなんですけど。
元の発言 [ Re: ありました! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月6日(火)17時41分44秒 ]
>> ※紀氏譜記
この紀氏譜記って何処探しても出てこない。
おやおやおやー・・・
こりゃ失敗か。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 11月7日(水)12時25分11秒 ]
>> >> いずれにしろ高句麗は「其土地肥美、背山向海、宜五穀、善田種。」を狙って侵略した事は間違いないでしょう。
>> >> 沃沮人がまとまって抵抗すればあるいは追い返せた可能性はありますがそれが出来なかった。
>> 支配下に入ったということは守る力がなかったということでしょう。
>> >> 高句麗は公孫氏滅亡の後、一時的に魏に従ったのに数年で魏に対して叛乱をおこしている。
>> >> この辺りを私は魏が沃沮やワイから収奪するのを禁止したためではないかと推測しています。
>> >> 敵わないと判っていても高句麗にとっては飢え死にするか戦って死ぬかの選択だったのでしょう。
>> 反乱の理由について想像以外の根拠はありますか?
ありませんが強盗をする事については下記のような話。
漢の時ですが
「王莽初發高句麗兵以伐胡、不欲行、彊迫遣之、皆亡出塞爲寇盜。」
なんか高句麗人気質を表していませんか?
漢文あまり得意じゃないですが
「高句麗兵を使って胡を討とうとしたら逃げ出して強盗集団となった。」と書いてあるような気がします。
元の発言 [ Re: 水を注すようですが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 11月7日(水)14時16分31秒 ]
>> ありませんが強盗をする事については下記のような話。
>> 漢の時ですが
>> 「王莽初發高句麗兵以伐胡、不欲行、彊迫遣之、皆亡出塞爲寇盜。」
>> なんか高句麗人気質を表していませんか?
>> 漢文あまり得意じゃないですが
>> 「高句麗兵を使って胡を討とうとしたら逃げ出して強盗集団となった。」と書いてあるような気がします。
あのー、私も事情に疎いですが、むりやり敵地に徴発されて、軍役を捨てて集団で逃げ出したら、兵糧も無しにどうやって故国に帰りますか?
中華王朝と高句麗との間の政治関係は、色々変化するようですが、全体に見るとあまりよくないようです。
私は高句麗は騎馬民族的というか、中国人からみるとやや偏見の目で見られていたようにおもいます。
とにかく食うにも困る民族がいきなり強大化することはありえない。
まず生業があって人口が増え、強大化してのち、環境変化や、人口の増えすぎで飢えることは有るでしょうが。